あわてて寝室を出て、シャワールーム、居間、台所と探してみたが、やっぱり、どこにも夏美の姿はなかった。 しょんぼりしたまま居間に戻って、ソファーに腰を下ろすと、玄関が開く音がして、廊下に出ると、夏美だった。 「どこ行ってたの?」 「冷蔵庫に何もないから、コンビニまで買い物に行ってたの。」 「そう。」 ほっとした。 「それより、その格好。」 夏美はコンビニの袋で顔を覆った。 「家では、服を着ないの?」 はっとして、前を押さえ、 「ナチュラル指向なんだ。」 と言って笑った。 「さあ、シャワーを浴びてきて。その間に、朝食を作るから。」 「うん。」 と言って、シャワールームに行こうとすると、背中から夏美の声。 「それから、服は着てね。お願いだから。」 大爆笑の夏美。 サイモンとガーファンクルの『セントラル・パーク・コンサート』のCDを聞きながら朝食。 「CDは、クラシックばかりなのね。」 「うん。」 サラダをほうばりながら頷いた。 「でも、唯一のロックアルバムが、サイモンとガーファンクル。」 「うん。好きなんだ。再結成して日本に来たときにはコンサート聞きに行った。」 「へえ。行ったのー。すごい。私も好きよ。このアルバムも大好き。」 サイモンとガーファンクルの話をしている最中に電話が鳴ったので、出ると、昨日の事故の加害者のトラック運転手からだった。 話ぶりから相手がわかると、夏美は、小声で、 「許してあげて。けがも軽かったんだし。」 と言った。 わかったという印に、指で丸を作って見せる。 電話の相手は、平謝りに謝った後で、午後から会いに来たいと行った。 僕はもう大丈夫だからその必要はないと言ったが、相手は譲らず、結局、会う約束をした。 電話を切ると、夏美は、もう一度、トラック運転手を許してやるようにと念を押した。 食事が終わると、夏美はてきぱきと後片づけをしてから、帰り支度をした。 別れ際に、僕が今夜会えるかと聞くと、彼女は、これから帰って原稿を仕上げないといけないから今夜は無理だと告げた。 「明日は?」 「明日は、別の原稿の締切なの。」 「明後日は?」 と聞くと、少し困ったというように、結んだ唇を歪めてから、僕をまっすぐに見て、 「ねえ。お願い。そんなに急がないで。」 と言った。 「どうして?急いでないよ。ただ、会いたいんだ。」 僕が言うと、彼女は、僕から目をそらせて、唇の下に手を当てた。 「私、まだ、わからないの。」 「何が?」 「あなたを愛してもいいのかどうか。」 「そんなの、考えなくてもわかるさ。いいに決まってる。」 「駄目なのよ。私。愛し過ぎるの。そうしたら、何もかも見えなくなっちゃうのよ。」 大きくなった声は少し震えていた。 「それが恐いのよ。愛し過ぎて、何も見えなくなってしまうのが。」 最初の結婚のことを言っているのがよくわかった。 「だから。お願い。もう少し、時間をちょうだい。」 夏美は目に涙を浮かべていた。 こんなとき、何が言える? 何も言えなかった。 歌とは違うんだ。 これは現実なんだ。 『明日に架ける橋』の途中で、CDを止めた。 午後になって、加害者が家に来たときにも、僕は、ずいぶんと暗い顔をしていたと思う。 手土産の菓子折りを持参してやってきた相手は、僕と同じくらいか少し年上。山村と名乗った。 残業続きで、疲れていて、ついぼーっとして、信号を見過ごしたらしい。 汗をふきながらひたすら平身低頭する話ぶりから、彼の小心さと懺悔の気持ちがよく伝わってきた。 「もういいよ。大丈夫だから。」 「ですが。」 「結婚してますか、山村さん?」 「え?ええ。」 「子どもは?」 「一人います。」 「おいくつ?」 「十才になります。」 僕が、奥さんと子どものためにも、罪が軽くてすむように、上申書を書くからと言うと、山村は、やっと、少しだけ安心の笑顔を見せた。 幸い軽いけがですんだことだし、これでいいさ。 それに、このことを知れば、また、夏美も喜んでくれる。 僕としても、昨夜の夏美との素晴らしい夜を思うと、あの事故は、幸運のきっかけだったとも言える。 もちろん、そんなことは口にしなかったが、山村への怒りはとうの昔に消えていた。 三十分ほど話をして、笑顔で彼を見送った。 夜、夏美に電話をした。 3コール目で出た。 「もしもし。」 だが、受話器から聞こえてきたのは、無機質的な留守番伝言。 受話器を置いて、今度は、携帯にかけてみた。 「おかけになった電話は、ただいま、電波の届かない場所にあるか・・・・・。」 三日間かけ続けたが、同じ状態。 四日目の午後になって、名刺の住所を頼りに、彼女のアパートを訪ねた。。 曙橋三丁目。アパートは見つかったが、留守。 何か知ってるかもしれないと、東都新聞の龍村氏に電話を入れると、原稿を持ってきた彼女は少し旅に出ると言っていたと教えられた。 唖然とした。 気持ちが自分を離れてどこかに言ってしまい、何と言って、龍村氏との電話を切ったのかも覚えていなかった。 街を歩き回り、くたくたになって家にたどりついた。 一日のほとんどをベッドの中と今のソファーで過ごし、ひたすら夏美からの連絡を待った。 どうして、気づいてやれなかったんだろう。 注意深く彼女の言動を見ていれば、彼女の気持ちを感じていれば。 きっと、彼女の悩みがわかったはずだった。 わざとらしい強がりや、ときどき見せた遠い目。 翌日、夏美からの絵はがきが届いた。 消印は神戸。 異人館の風見鶏の写真の入った絵はがきには、次のようなことが書いてあった。 前略。 怒ってるでしょうね。 何も言わずに旅に出てしまって。 でも、やっぱり少し考えたくって。 私自身のこと。仕事のこと。 そして、あなたのこと。 帰ったら、連絡します。 神戸にて 夏美 はがきを何度も読み返しているところに、電話が鳴った。 橋本からだった。 「やっと出張から帰って参りました。」 ぼんやりしながら聞いた。 「うん。」 「元気ないですねえ。」 「そうか。そうでもないよ。」 作り笑いをして聞かせた。 「そうですか。それじゃあいいんだけど。さっそくですが、今夜にでも、会いませんか?」 「今夜?」 なぜか声が高くなって、自分でも驚いた。 「ええ。ご予定がおありなら、明日でもいいですが。」 橋本も驚いたのだろう。びっくりしている様子がうかがえた。 「いや。ない。今夜会おう。」 電話を切ると、また、はがきをぼんやりと眺めた。 神戸に行こうと思ったが、一瞬だけ。 神戸のどこにいるともわからない。それに、今は、もう、神戸にはいないかもしれない。探すのは無理だ。 することもなく、家にいても暗くなるばかりなので、早々に家を出た。 ランチアに乗って、イグニッションキーを回したが、途中で、戻した。 こんな日に、車は止めよう。事故のもとだ。 新宿は相変わらずにぎやかだった。 スクランブル交差点を渡る人混みを見ながら、神戸もきっとこんなふうだろうかと思った。 ぶらぶらとしながら時間を過ごし、約束の時間の三〇分前に、店に着いた。 三丁目の外れ、二丁目にほど近いところにあるそのビルは、ゲイが一夜の恋人を求めてやってくることで有名だった。 おい。ちょっと待ってくれ。 誤解されちゃ困る。 僕はただ、地下にあるそのロシア料理店のうまいボルシチとシャシリクが好きなんだ。 約束の少し前になって、橋本は来た。 「お待たせしました。」 「いや。まだ、約束より早いよ。」 注文をすませると、橋本は、早速と言って、かばんから書類袋を取り出した。 「僕が見た限り間違いありません。佐治井村です。」 「そうか。よかった。」 「ええ。私も現地に行ってみるまでは不安でしたが、行った甲斐がありました。」 橋本はそう言って、佐治井村で撮ってきた版画の場所とおぼしき風景の写真を僕に見せた。 「ありがとう。」 と言って、写真を受け取り、一枚一枚見ていった。 版画と写真の符合は、僕には一目で確信できた。 版画を眺めるときと同じ不思議な懐かしさが写真からも感じられた。 「確かに、ここだ。」 と僕は橋本に告げた。 「だが、海はどうだ。海は、佐治井村からは見えないだろう?」 夏美も言っていたし、地図でも調べた。 「ええ。そうなんです。残念ながら。」 岬は、佐治井村からまっすぐ西の日本海に突き出た矢岩岬だと言った。さっき見た写真に混じっていた岬の灯台。そこにも行って、写真を撮ってきたのだと言った。 「それで、先生。本当に、佐治井村に行かれたことはないんですか?」 「うん。行ったことがないようなんだ。おやじの話では、子どもの頃に、山一つ向こうの冊阿仁村というところまでは行ったことがあるんだが、佐治井村にも矢岩岬にも行かなかったらしい。」 「そうなんですか。」 橋本は、頭をひねった。 「だが、僕が、行った行かないは別にして、少なくとも、版画の場所が特定できただけでも、すばらしいよ。ありがとう。よく調べてくれた。」 「いえ。お役に立てて光栄です。」 面と向かって、まじめに礼を言われて、橋本は照れくさそうに頭をかいた。 「行かれますか?」 と聞かれて、僕は、 「うん。」 と、あいまいな返事をした。 夏美のことを考えていた。 彼は僕の内心には気づかず、それじゃあ、と言いながら、資料袋を渡した。 中には、版画の風景と合致する場所に版画のタイトルと印を入れた詳しい地図と宿になる民宿の住所と電話番号が書かれたメモが入っていた。 「ありがとう。何から何まで。助かるよ。」 橋本に悪いような気がした。 夏美のことがなければ、僕はもっと喜べたはずだった。 だが、やっと、心の風景の現場に近づけたにもかかわらず、僕の心は、それを素直に喜べなかった。 橋本と別れた後、タクシーの中でも迷っていたが、家につく頃には結論が出た。 行こう。 とにかく、何かの行動を起こさないと。 考えるために旅に出た夏美は、佐治井村に立ち寄るかもしれないという期待もあった。 |
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