「ねえ。この後で、渋谷で取材をして、それで今日の仕事が終わるんだけど、そのあとどこかで会えないかしら?」 と電話で言われて、僕は、救われたように応諾した。 店に入ると、夏美はすでに来ていて、目が合うと、ぴょこんと頭を下げた。 パットで肩をいからせた黒いスーツ姿。よく似合っていた。 どう挨拶するべきか迷って、黙って坐った。 「怒ってるわよね。」 口火を切ったのは、夏美。 僕は黙ったまま。 「そりゃあ、無理ないわよね。あんな電話したんだもの。ごめんなさい。」 「いや。」 とだけ言って、夏美を見た。うつむいたままの夏美。 「本当に、ごめんなさい。」 肩をすぼめ、頭を下げた。 「いいよ。もう。わかったから。」 夏美は、顔を上げ、僕を見た。 ほほ笑みかけると、彼女は、少し戸惑いながらも、にこっと笑った。 「許してくれるのね。ありがとう。」 夏美は、ほっとした顔で言った。 話すうちに、夏美の電話の理由がわかってきた。 夏美は、フリーのライターで、東都新聞にもときどき記事を載せている。 パーティの取材もそうだったわけだが、代役を引き受けたのは、本当。依頼主は、先程電話に出た龍村だった。 龍村に取材の報告をしているとき、別の記者が帰ってきて、机の上に置かれた僕の名刺を見つけたらしい。 「世の中で、一番嫌いな方から数えて、十番目には入る奴。」 話題の記者のことを夏美はそう呼んだ。 口ばっかり達者で、自分は仕事できない癖に、それを棚に上げて、人の記事にいちいち文句をつける奴。そのくせ、世渡りだけは上手で、表裏のある奴。 「それで、あいつ、私に、あなたに、電話をして、自分のためにインタビューの約束をしてほしい、って言ったの。」 思い出しただけで腹が立つらしく、あいつという言葉に力がこもっていた。 「私断ったわ。誰が、あんな奴のために協力なんかしてやるもんかって思ったから。そしたら、あいつ、龍村さんまで巻き込んだのよ。『ねえ、デスクからも夏美ちゃんに言ってください。』って。何が、夏美ちゃんよ。さんざん、私の書く記事に文句を言って、私を使ってくれてる龍村さんのことも、悪く言ってる癖に。あんな奴に、気安く、夏美ちゃんなんて言われたくないわよ。」 「そう。それで、最初の電話をしたわけか。」 「そうなの。龍村さんにも、頼まれて、すぐにいやとは言えなくなったから。」 「それで、ああいう話し方。」 「そう。本当、ごめんなさい。でも、あなたが、断ってくれてほっとしたわ。あんな奴に誰が協力してやるもんですか。」 露骨に嫌な顔をして見せる夏美をほほ笑みながら見ていた。 じっと話を聞く僕には、満足してくれたようで、ときどき目が合うと、にこっとほほ笑んだ。 「だけど、あなたからのあの電話でしょう。驚いたわ。あなたには、後で電話しようと思ってたの。でも、・・・」 夏美は、申し訳なさそうに、上目がちに僕を見た。 「そうだったのか。僕が急ぎ過ぎたわけだね。申し訳ない。」 素直に言えた。 「いえ。そんなことないわ。あなたは知らなかったんだもん。怒って当然。なのに、私、パニックになっちゃって。」 「そうだよね。パニック。でも、それも、しょうがない。」 笑うと夏美も笑った。 「わかり会えてよかった。」 僕は、握手のために手を出した。 「そうね。仲直り。」 仲直りの食事を提案すると、夏美は、 「よろこんで。」 と言って応じた。 何が食べたいかを聞くと、任せると言うので、お気に入りの店に案内した。 渋谷で僕の一押しの店といえば、ザグラダをおいてない。 本場のパエリアが食べられる店として、雑誌や何かで紹介されてからあまり行かなくなったが、久しぶりに訪れたザグラダは、以前と変わらない雰囲気を保っていて、僕をほっとさせた。 代官山に向かう裏通り。 一歩店の敷地に入ると、そこは、スペインになる。 オーナーの好みで、すべてがスペインからの輸入品で統一されているらしい。 以前、僕にこの店を紹介してくれた親友の布施は、 「店そのものも、スペインの田舎屋を解体して船で運び組み立てたんだってさ。」 と言っていた。 店内に入ると、アントニオ・ガウディを思わせる置物や、天井と床のアラベスク模様、そして、スペイン風のエキゾチックなBGMが客を迎えてくれる。 白人のウエイターが僕の顔を覚えていて、親しげに、「アディオス セニョール。」と声をかけて、席に案内してくれた。 「ねえ。もしかして、ここって、スペイン語しか通じない?」 と夏美が心配そうに小声で聞いてきた。 「まさか。彼も、日本語をしゃべるよ。片言だけどね。」 ウインクをして見せると、彼女はクスっと笑った。 まずは、サングリアで乾杯。 「君の美しさに。」 と言って、また笑わせた。 笑うとあどけない少女の顔になる。飾り気なしの笑い。 「君は、笑ってるときの方が、ずっと素敵だね。」 「みんなそうよ。人間、笑顔が一番だもの。でも、笑ってばかりいられないでしょう。」 夏美は言った。 「そんなものかねえ。」 僕が言うと、夏美は、そんなものなのよというふうに頷いて、 「フリーのライター、って大変なの。特に女はね。いろいろ、邪魔もあるし、競争は、年々激しくなるし。」 少し真剣な目をして言った。 パエリアの味も以前のままだった。 少し固めのパエリアは、最後になべ底に残ったぱりぱりの焦げまでがおいしいというのが、この店の通たちの自慢。 僕に気を許してくれたのか、サングリアで少し酔ったせいか、それとも店の雰囲気がそうさせたのか、あるいはそのすべての相乗効果か、とにかく、夏美は、よくしゃべった。 スペイン料理の食後に欠かせない甘いワインとアンダルシア風の甘いアーモンド菓子のデザートが運ばれてくるまでに、僕は、藤原夏美について、いろいろなことを知った。 年齢は、二十九歳。 東北地方の山村の出身だった。 高校を卒業後上京して、都内の出版社に入社。 子供のころから文章を書くのが好きで、将来は小説家になりたいという希望があって入社した出版社だったが、やらされる仕事はお茶くみと雑用。 そんな毎日に嫌気がさしてきた頃、彼女の目の前に現れたのがフリーライターの藤原優介。夏美のもと夫だったんだ。 「バツイチなのよ。おどろいた?」 と聞かれて、 「少しね。」 と正直に答えた。 剣のかわりにペンを持ち、白馬ならぬハーレーダビッドソンにまたがってやってきた王子様。 彼は、瞬くうちに、彼女のハートをとらえ、知り合って一月後、二人は結婚した。 悲惨な日常を捨て、白馬の王子様とともに、夢のお城へ。 童話なら、ここで幸せなハッピーエンド。 だが、幸せな結婚生活は、そう長くは続かなかった。 ここが、童話と現実の違うところらしい。 白馬の王子様は、万人の王子でいたい性格らしく、複数の恋人と結婚後もつきあっていて、おまけに新規開拓までしていた。 「その上、彼、アルコール依存症だったの。つき合っていたときは、『バッカスからの啓示をもたらす神秘の水』という彼の言葉を鵜呑みにしていたんだけど、結婚してみたら、何、朝から、ブランデーやウイスキーが手放せない生活なのよ。」 藤原は、アルコールが切れかけると、狂暴になって、彼女にも、暴力を振るった。 「すぐに、離婚しようと思ったわ。でも、駄目だった。彼、口がうまいのよ。それに、どう言うんだろう。母性本能をくすぐるのが、すごくうまいの。口論をするんだけど、いつの間にか、私は、魔法にかかったように、納得させられてしまうの。毎日が喧嘩だったわ。」 肉体的な暴力と言葉の暴力。そして、魔法。 たえかねた夏美は、裁判所に離婚調停を頼んだが、それを知った藤原は、激怒して、包丁を振りかざして、夏美を追いかけた。 「殺されると思ったわ。それで、いったん、訴訟を取り消すと言って、彼を納得させたの。安心した藤原が眠りにつくと、私は、そっとベッドを抜け出して、取るものも取りあえず、友だちの家に逃げ込んだってわけ。」 だが、夏美の文才を認め、フリーライターとしての道を開いたのも、他ならぬ藤原だった。彼女に書くことを勧め、雑誌社を紹介した。 「その点では、感謝してるわ。」 夏美は言った。 「あの人は、いい人だった。でも、同時に、とても、弱い人だったのよね。」 アウトドア系のライターだった藤原は、おとなしいときには、草や木や森を愛する穏やかな人柄だったらしい。 すべて過去形。 藤原は、離婚調停中に、自動車事故で死んでいた。 「最後に会ったのは、警察の霊安室。身元確認のために呼ばれたの。法律上は、まだ、妻だったから。」 と言って、夏美は、少しさみしげな表情を浮かべた。 「とても、安らかな顔をしてた。交通事故で即死だったって聞かされてたから、私、顔を見るのがすごく恐かったの。傷だらけの苦痛にゆがんだ顔を想像してたから。でも、違った。とても穏やかな顔をして、眠っていたのよ。」 少しの沈黙。 「ごめんなさい。食事中にする話じゃないわね。」 夏美が笑い、僕も安心して笑った。 その時、タイミングよく、ビノ・ドゥルセ(甘いワイン)とデザートが運ばれてきた。 「インタビューのことなんですが、いつにしましょう?」 改まった丁寧な言い方をした。 「いつでもいいよ。なんなら、今でも。」 僕は笑ってそう言った。 「今は駄目よ。まだ、あなたの版画のこと、私、全然、勉強してないし。」 「そうみたいだね。」 「それに、今は、友だちとして、会ってるんだもん。」 友だち、か。 友だち。まあ、いいか。 「じゃあ、明後日の土曜日の午後、っていうのはどう?」 「いいわ。明日、図書館にこもって、美術年鑑と美術雑誌を読みまくるわ。」 楽しい会話は続き、やがて、カザルスの『鳥の歌』がスピーカーから流れて、この店のラストオーダーを告げる頃に、僕たちはザグラダを後にした。 家につくと、留守電に、三本のメッセージが入っていた。 一本は、重光氏から、次のパーティのお誘い。 もう一本は、おふくろ。 最後のメッセージは、夏美からだった。 「一足早く家につきました。今夜は、ありがとう。それから、本当にごめんなさい。土曜日の午後二時にお伺いします。それじゃあ。おやすみなさい。」 相変わらず混雑する首都高を抜け中央道に入ると、道が少し空く。 アクセルを踏む足に少し力を入れると、ランチアは、素早く反応した。 ユーミンが歌った競馬場とビール工場を左手と右手に見て、八王子の料金所を過ぎると、辺りの景色は一変して、まぶしい新緑に包まれた。 山間部に入って、電波が通じなくなる前に、布施に電話を入れた。 「あ。裕一郎か。俺だ。小林。」 「正弘か。どうした?」 「もうすぐ、トンネルだから、手短に話すが、今、そっちに向かってる。」 「こっちに?」 布施は、少し驚いた。 「また、あれがあったのか?」 「ああ。お前も、早々、東京にも来れないだろうから、今日は、俺がそっちに行く。」 布施裕一郎は、高校時代からの親友の一人で、精神科医。今は、甲府の郊外にある大学の付属病院に勤務していた。 落ち着いて話す僕のようすに安心したのか、布施も、声のトーンを下げた。 「こっちにか。それもいいなあ。久しぶりだろう?甲府は。」 「ああ。久しぶりだ。それじゃあ。もうすぐ、トンネルだから。4時には、そっちに着く。」 「うん。待ってる。」 初めてあれがやって来て、できた版画を目にしたときには、ラッキーと思った。 何しろ、自分で見ても、すごくインパクトのあるいい出来栄えだったから。 ところが、度重なり、版画も売れ出してくると恐くなってきた。 どうしようと思った。 そんなこと、誰にでも相談できることじゃない。たとえ医者であっても。 だが、僕の場合は、幸運だった。 すぐに、布施のことを思い出した。彼は、その頃、信濃橋近くの母校の大学病院に勤務していて、僕が電話をすると、すぐにやって来てくれた。 「それで、からだの方には異常はないのか?」 「ああ。体の方は、精密検査をしてもらった。」 「何度か、あったのか?」 「うん。去年の今ごろに始まって、これで五度目だ。」 「五度か?」 「そう。五度とも、急に記憶がなくなって、気がつくと、完成して、試し刷りまで済んだ版画が残っているんだ。」 「それで、自分が彫ったのだと言うかんかくはあるのか?」 「そうなんだ。手には、確かに、筆を握って絵を描いたって感覚があって、」 布施は、しばらく考え込んでいたが、こう結論づけた。 僕の潜在意識が、顕在意識に働きかけて、意識のそこに眠っている風景を、版画に表現させている。あまりに強い潜在意識の働きで、顕在意識は、その間、記憶の機能を停止してしまっているのだと。 「芸術家と呼ばれる人には、多かれ少なかれあることさ。」 と布施は言った。 「むしろ、それがあることが、本当の芸術家の証とも言えるんじゃないかなあ。よく聞くだろう。何かに、取りつかれたように、絵筆を動かす画家や、鑿をふるう彫刻家の話。ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり。画家や彫刻家だけじゃない。作曲家にも、小説家にも、詩人にも同じようなことが言われている。いわゆる天の声、天啓っていう奴さ。今じゃ、それが、潜在意識のなせる技だということは定説になってる。」 自分を、ミケランジェロやダ・ヴィンチのような偉大な芸術家に比定して結論づけてくれた友人の言葉に、僕は素直に頷いた。 「まあ。心配しなくてもいいんじゃないか。お前も、本当の芸術家だってことだ。」 薄い黄緑色の山に目を楽しませながら、僕はランチアのアクセルをさらに踏み込んでいた。 新宿から約百キロ。笹子峠の長いトンネルを抜けて一つ二つのカーブを過ぎると、視界が一気に広がる。甲府盆地である。 夜ならば、ここで、宝石箱をひっくり返したような甲府盆地のすばらしい夜景が見えてくるのだが、今は昼だ。 遠くに八ヶ岳を眺めながら、ランチアは快適な走りを続けた。 布施の研究室の教え子という白衣の女性が受け付けまで出迎えに来てくれた。 青春の喜びを一身に背負ってるというタイプだ。 「先生のお友だちなんでしょう。」 僕の少し前を歩きながら、彼女は、いかにも楽しいというように笑った。 「はい。」と僕は応えた。 青春はいい。 人生の春だ。自分が年をとり過ぎたとは思わないが、あの頃の爆発するようなエネルギーは、どこかに行ってしまった。 「有名な版画家さんだと聞きました。」 「うん。版画家。有名かどうかは知らないけどね。」 「布施先生の研究室には、先生のリトグラフが飾ってあるんですよ。前に聞いたら、『友だちの有名な版画家の作品だ。』って」 「そうか。友だちだから。ありがたいね。」 僕が言うと、彼女は一層楽しそうに笑った。 布施の研究室に僕を案内すると、 「ごゆっくり。」 と言って、また笑い、部屋を出ていった。 「楽しそうなお嬢さんだね。」 「ああ。何でも、楽しいらしい。」 握手を交わす。 ちらっと壁を見ると、お嬢さんの云った通り、僕の版画が飾ってあった。 「新緑がきれいだったよ。いいなあ、こっちは。自然がいっぱいあって。」 「ハハハ。ほんとうにそう思うか?俺は、お前には、都会が似合ってると思うがね。」 「そうか?」 「うん。都会にいるからこそ、心象風景で、あれほどの素晴らしい自然美を生み出し、版画にできてるんだと思うよ。」 何となく、布施の言うことがわかるような気がした。 人間は、無いものに憧れる。 人工物が氾濫し灰色のコンクリートでできた建物が屹立する都会の住人は、田舎の緑と土の臭いに憧れる。けれども、同時に、田舎に住む人たちは、都会の便利さと人工的な華やかさに憧れている。 「ところで、試し刷りを持ってきたんだろう。」 「ああ。」 布施がテーブルの上を整理し、僕はキャンバスを乗せて包んでおいた紙をほどいた。 じっと見た後で、布施は、 「いいできだね。俺は、芸術のことはよくわからんが、人を幸福な気持ちにさせてくれる作品は、やはり、素晴らしい芸術だと思うよ。」 と言った。 「だが、この景色は、前にも版画で見たことがあるような風景だね。この学校も、川も、橋も。」 「うん。何度もね。繰り返し出てきている。」 「それで、場所を特定するという作業は、進んでるのか?」 「いや。まだ。」 「そうか。」 布施は苦笑した。 もし、版画が、心の作り出した心象風景ではなくって記憶の中にある風景だとしても、その場所を特定することにそれほど意味はないだろう、というのが布施の考えだった。 僕が、以前に、場所を探すことを提案したとき、布施は、賛成も反対もしなかった。 「お前が、やりたいと思えば、やればいいさ。問題はないよ。」 というのが結論。 「早く見つかるといいな。」 布施は、皮肉ではなく言った。 「ああ。わかれば、お前には、真っ先に知らせるよ。」 「うん。」 いつもの馬鹿っ話を続けて、六時になったので帰ろうとすると、布施に引き留められた。 「今日は、泊まっていけよ。女房にも、さっき、電話でそう言ってあるから、夕食を作って待ってると思う。」 独身者にとって、同い年の友人の口から、女房という言葉を聞くのは、何となく妙な照れくささがある。 僕は照れを隠しながら、 「そうか。じゃあ、お言葉に甘えよう。」 と返事した。 布施は、大学のそばのマンションに住んでいた。 「一年ぶりね。御柱祭の帰りによって以来かしら。」 典子は、いつもの人懐っこい笑顔で迎えてくれた。 典子にかかると、会うのは久しぶりなのに、いつも会ってるような錯覚を覚える。 夫婦してそういう人柄なのだ。 「典子さんの笑顔で迎えてもらうと、何となく、落ち着くね。」 お世辞じゃなく言った。 「お世辞言っても、何もでないわよ、小林さん。」 典子が言い、三人で笑った。 典子の手料理をつつきながら、三人でワインを飲んだ。 一時期、真剣に結婚を考えたことがある。 これと言った相手をしぼり込めずにあきらめたのだが、布施が典子と結婚をした頃だった。 布施は、まだ東京に住んでいて、僕は今よりもずっと頻繁に、二人の新婚家庭を訪れていた。 よくもまあ他人の新婚家庭に、独身者があれほど足しげく行ったもんだと、今から思えば、礼儀知らずだった自分に恥ずかしくもあるのだが、あれだけ頻繁に通えたのは、布施の変わらぬ友情もさることながら、人の気持ちを和ませ気のおけない気持ちにさせてくれる典子のきめ細かいやさしい心遣いのせいだったのだろう。 とにかく、あの頃、僕が、結婚ということを真剣に考えたのには、そんな二人の影響が大きかった。 二人の新婚生活に、うらやましさを感じたのだ。 だから、彼らが、山梨に引っ越しをして、少し疎遠になると、僕の結婚願望も嘘のようにどこかに消えてしまった。 「俺は、山梨に来るまで、あまりワインというのはやらなかったんだが、こっちに来て変わった。ほとんど、毎晩、ワインを飲んでる。ちびりちびりだけどね。」 布施が言った。アルコールが入ると雄弁になる。昔からの癖だ。 「産地で飲むワインはうまいんだ。その土地でできた野菜や水を使った料理を肴にしてるのもいいのかもしれない。」 グラスに半分ほど残っていた赤いワインを一気に呷ると、ボトルを持って僕と典子のグラスに注ぎ、自分のにもなみなみと注いだ。 「お前の酒は、明るくていいなあ。」 と言うと、 「そうだろう。酒は明るく飲まないとな。」 布施は、笑いながら大声で言った。 「いい躾してるでしょう。」 典子は、僕を見て笑った。 二人人を見ながら、僕は、夏美と彼女の元夫の藤原優介のことを思い出していた。 疲れたOLとハーレーにまたがった白馬の王子様。 包丁を持って妻を追いかける酒乱の夫。 幸福な顔をして霊安室に置かれた死人。 |
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