だが、そのあとの記憶はない。 目が覚めると、さっきまでは何もなかったキャンバスに、新しい絵が描かれていて、辺りには、筆や絵の具のチューブが散乱していた。 連作の新しい一枚になる下絵だった。 海に沈む夕陽。群れ飛ぶカモメ。夕日を映す海面と紫色の山。 目が覚めたという表現は正しくないかもしれない。我に返ったと言うべきだ。 ついさっきまで、筆を握っていたという感触は手に残っている。馬楝の感触も。手についた絵の具もまだ乾いてはいなかった。 もう、わかってもらえたと思う。 僕が、どうして、連作にそれほどこだわるのか。 なぜ執拗に、「あれは違うのだ。」と繰り返すのか。。 記憶がないのだ。 下絵を描くときの記憶が。 少し意識があるようなときもあるのだが、それも、ほとんど夢うつつといった状態で、自分の手が動いているのをぼんやりと見ているという感じなのだ。 始まりの記憶はある。 それはいろいろな形でやって来た。 脳天から雷に打たれたように、ズシンという重さを感じるときもあった。 深い霧の中で道に迷うように辺りが見えなくなってしまうことも。 ある時には、真っ暗な底無しの穴の中に落ちていく感覚も覚えた。 そして、決まって、耳は、ある音を聞いているのだ。 シャーーッ。 その音は、テレビやラジオのノイズ音のようでもあり、雪解けの水が谷川を激しく流れ落ちていく音のようでもあった。 絵を見ていると泣きたくなった。いつもそうだ。連作を初めて見るときには。 見ていると引き込まれ、いつの間にか、心が熱くなってきて、自分の中の汚れたものを絞り出すように、涙があふれてきた。 無性な懐かしさに似た感覚。 あふれ出す涙を抑えることもなく、僕は嗚咽を繰り返しながらひたすら泣いた。 泣きながら、ソファで寝てしまったらしい。 けたたましい電話の音で目が覚めた。 「はい。小林です。」 受話器を取ったあとで後悔した。いつもは、留守電にしてあって、めったに出たことはない。 自分の記憶の外で行われた創作活動で、思ったより体力を消耗していたのかもしれない。 とにかく僕は、電話を取ってしまった。 「もしもし」 声に聞き覚えがあった。 「私です。覚えてますか?」 藤原夏美。 「あ。ええ。もちろん。」 「昨日はどうもありがとう。」 「え?」 「送っていただいて。」 素直なところもあるんだ。 「ええ。どういたしまして。そのために、わざわざ電話を?」 「いいえ。実はお願いがありまして。」 昨日とは態度が違う話し方。 「何かなあ?」 「実は、インタビューをさせていただきたくって。」 そんなことか。それで、下手に出たんだ。 「それは、ちょっと。」 僕は言葉を濁した。 「そうですか。やっぱり無理ですか。」 「・・・」 「失礼しました。」 僕が何もいう前に、電話は切れた。 なんて電話だ。一方的に。人の話も聞かないで切るなんて。 いくら美人だって、何をしても許されるなんて思ったら大間違いだぞ。 怒りがおさまらなず、確か彼女が東都新聞と言っていたことを思い出して、番号案内で番号を聞いて電話をした。 「もしもし。」 多分、怒った声だったと思う。 「はい。東都新聞です。」 交換の女性の声を聞いて、少し心が落ち着くと、電話したことを後悔した。 だが、もう引き返せない。 「記者の藤原夏美さんをお願いします。」 きっぱりと言った。 ひとこと、文句を言ってやらないと治まらない。 だが、交換からの返事は、 「わが社に、藤原という記者はおりませんが。」 「えっ?」 僕はすっとんきょうな声を出した。 それが恥ずかしくって、できるだけ声を落ち着けて、 「美術か、文芸を担当してる藤原さんだけど。」 「藤原はおりません。美術にも文芸にも。藤原という記者がいないんです。」 「・・・」 パニックに襲われた。 混乱した頭を整理して、やっと出た言葉は、 「それじゃあ、責任者を出してください。」 だが、こういう苦情めいた電話の応対には、社内マニュアルがあるのだろう。交換の女性は、少しもあわてず、 「はい。それで、あなた様は。」 と言った。 「版画家の小林正弘です。」 アルプス一万尺を十回以上聞いたあとで、もしもし、という男の声。 「編集長は、ただいま、留守をしておりまして。私、芸術部デスクの龍村です。」 「小林です。」 「あのう。版画家の小林先生ですよね。」 「はい。」 「あ。失礼。他の電話が入りまして。こちらから折り返しお電話させていただきますので、お電話番号を。」 こちらの電話番号を告げると、龍村と名乗った声は、後ほどすぐに掛けなおしますのでと言って電話を切った。 電話番号で、いたずらかどうかの確認でもしたのだろう。 数分して、電話が鳴った。 相手は、龍村だった。 「先程は失礼しました。それで、藤原ですが、彼女が何か?」 交換の女性がさっきの電話の内容を伝えたのだろう。 「やっぱりいるんですね。彼女にかわってください。藤原さんに。」 「いえ。藤原は、フリーの記者でして。ときどき手伝ってもらっていますが、東都の社員ではありません。こちらには、先程までおったのですが、今はおりません。」 フリー? 社員じゃない? 「藤原が、何か、失礼なことでも。先生がお怒りのご様子だと、交換のものが申しておりましたが。」 何か、自分がとても悪いことをしているように思えてきた。 「いえ。そうじゃないんです。」 「・・・」 相手は、僕の言葉を待っている。 「実は、インタビューを、」 ついでてしまった言葉。 おい。待て! お前、自分が何を言おうとしてるのかわかって言ってるのか? 「インタビュー?インタビューをお受けくださるんですか、先生が?」 「え。ええ。藤原さんに頼まれまして。」 あちゃーっ。 言ってしまった。 龍村は話し好きな男で、なかなか電話を切ろうとしなかった。 おまけに、さすがに芸術部のデスクだけあって、僕の作品のこともよく知っている。 もちろん、連作のことも。 「私も、インタビューに、ご同席させていただけませんでしょうか?」 と彼は言った。 だが、すでに気持ちは落ち着いていて、申し出を丁重に断るだけの余裕があった。 インタビュアーは藤原夏美で、他には一切の同席を認めない。 そう言い切ると、残念がっている龍村に夏美への伝言を依頼して電話を切った。 冷凍のピザをレンジで温め、バドを開けて、ソファに坐ると、とたんに、電話が鳴った。 夏美かと思ったが、取らなかった。 相手が出て、「もしもし」と言う声で、橋本とわかったが、そのままにしておいた。 ピザが先だ。 いつもの留守電とわかったのだろう。橋本の声は止んで、留守番テープの間抜けな応答だけが聞こえた。 発信音の後で、再び、橋本。 「もしもし。橋本です。来月の大阪での個展の件で、お話があります。ご連絡ください。」 留守電の応答につられた間の抜けた話し方。 電話が切れる前に受話器を上げた。 「伝言受け取ったよ。」 「あ。先生。いらしたんですか?」 「うん。最初から、聞いてた。」 「人が悪いなあ。」 「ハハハ。許してくれ。電話嫌いなの知ってるだろ?」 「ええ。まあ。」 「それより、大阪の件は、この前打ち合わせした通りでいいんじゃないか?」 「ええ。その最終確認のお電話を差し上げた次第でして。」 「そうか。いいよ。この前の通りで。あとは、君に任せるから。」 橋本は、任されたことへの礼を言うと、これから仙台に出張に出るが、出張から戻ったら会いたいと言った。 「うん。そうしよう。」 来週会うことを約束して、電話を切った。 受話器を戻すとすぐに、ベル。 また、とっさに受話器を取ってしまった。 しまったと思ったがすでに遅く、案の定、藤原夏美。 「よかった。」 が彼女の第一声。 「さっきから、ずっと話し中だったから。」 そこまではよかった。 僕は他の電話があったことを話して、夏美の次の言葉を待った。 当然、彼女は、インタビュー受諾の礼を言ってくるだろう。そしたら、さっきの電話の非礼を、さりげなく注意すればいいじゃないか。大人の話し方で。 だが、彼女の反応は、全然違った。 「困るわ。あんなの。」 「えっ?」 とっさに聞き返した。 「困る、って言ってるの。勝手に編集部に電話したりなんか。困るわ。あんなの。」 プチンと音を立てて何かが切れた。 「君何言ってるか、わかってるの?」 「もちろんわかってるわ。」 「じゃあ。君は、馬鹿なのか?まず、礼を言うべきだと思うがね。」 「馬鹿は、そっちでしょう。勝手なことをして。」 「勝手、勝手って、君が、申し込んできたインタビューを受けることが、勝手だって言うのか?それこそ、勝手じゃないか。いや、馬鹿げてる。君は、クレイジーだ。」 大声が出てしまった。 「・・・・・。」 しばらくの沈黙。 言い過ぎたとは思わない。いくらとびきりの美人だからといって、許されないことはあるんだ。 「ごめんなさい。」 ぽつりと言った言葉は、さっきまでの威勢の良さとは違って、か細い消え入りそうな声だった。 何も言えなくなった。 「ありがとう。と最初に言うべきだったわ。ごめんなさい。でも、・・・。」 いきなり泣きそうな声。 おいおい。 どうすればいい? |
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