涙が滝のように流れた。 赤い瓦で葺かれた木造校舎。白く塗られた壁。校庭で遊ぶ子どもたち。窓からそれを見ている先生。 レンガ造りの古い郵便局。赤い自転車の郵便局員。その傍らで挨拶をかわす野良着姿の婦人。 川端で風にそよぐ柳と満開の桜。群れ集う人々。花見の宴会。 用水路の傍らに咲くタンポポ。水車小屋。 春の田植えと秋の実り。 村祭。段々畑。牛が草を食む緑の放牧場。クマザサの藪。製材所。 そして、海。 「先生。」 呼ばれて、ふり返ると、笑顔の橋本が立っていた。 「やあ。おつかれさま。」 「タキシードなんて着てらっしゃるんで、一瞬わかりませんでしたよ。」 モデルがポーズをとるように両方の襟をつまんで微笑むと、似合いますよといって、彼も笑った。 「今回も成功ですね。」 橋本は童顔をほころばせた。 「ああ。うまくいった。君にはいつも世話をかけるね。」 橋本浩一は、僕の個展の一切を取り仕切っている大手イベント会社の企画担当。 今年、二十九才。僕より五つ年下になる。 彼が担当する僕の個展もこれで五度目にだった。 「いえ。そんな。仕事ですから。それに、僕は、先生の一ファンとして、先生の作品をより多くの人に見てもらえるだけでうれしいんです。」 彼は、いつもの文句を口にした。お世辞でもうれしい。 橋本の言を待つまでもなく、個展は成功だった。 「固定客が増えています。ほら、あのご婦人グループも、あちらの紳士も最近の個展にはずっとおなじみの常連様ですよ。」 「うん。」 「それに、先生が気に掛けておられた連作以外の評判もますますあがっておりますから。」 連作、と言われ、心を見透かされたようで、どきっとした。 「そうだね。ありがたい。」 さりげなく答えた。 連作以外の作品。 毎回の個展で、そのことだけが、僕の気がかりだった。 だが、橋本の言った通り、最近の個展では、それらの売れ行きも着実に伸びている。評論家たちの受けもよくなってきていた。 これで一安心かな。心の中の不安がまた少し痩せたような気がして、僕は正直、ほっとしていた。 あまり自分の個展会場に長居したくなかった。 橋本とは、いつものバーで飲む約束をして別れた。 橋本が珍しがったお仕着せのタキシードにはわけがあった。 幕張のホテルで開かれる画商のパーティに呼び出されていたのだ。 そう。お呼び出し。 僕は元来パーティなどというものが嫌いな性格なんだ。 でも、版画を買ってくれている画商のパーティとなれば三度に一度くらいは断るわけにもいかない。 人生そんなもんだろう? それに、断るのも苦手なたちなんだ。 首都高は相変わらず込んでいた。 これじゃあ、車が泣くぜ。 ランチャ・ストラトス。 昔から乗りたかった車。 一月前に乗り換えた新車だった。 一路幕張へ。 ボーイに案内されて会場につくとすでに大勢が来ていて、いくつかのテーブルを囲むように人垣ができていた。 僕に気づいた主催者の画商重光重蔵が近づいてきて大げさに手を広げた。 「やあ。小林先生お待ちしておりました。」 彼は独特の大きな声で言った。 名前を呼ばれた者に対して招かれた客であることを告げるのと同時に、この新しい客人を招いたのが自分であることを周囲に告げるお得意のパフォーマンスだ。 「お招きありがとうございます。」 と普通に言った僕の手を引いて、彼は、そこここのテーブルを回る。 「こちらが、最近売り出し中の小林正弘画伯。」 その度に座が湧いた。 ぼくは、重光から初めて画伯と呼ばれて一瞬面食らったが、もちろん、悪い気はしない。 「先生。こちらが、東洋物産の深谷会長。先生の版画もお買い上げいただいております」 最初に紹介されたことへの満足げな様子がうかがえる笑顔。絵に描いたような実業家タイプの紳士だ。あまり好きなタイプじゃないけど社交社交。 僕は、笑顔で握手を交わした。 それからも、次から次へ握手攻めにあった。 一通りのあいさつが終わると、重光は、 「先生。今回の個展も評判いいですな。これからも、よろしくお願いしますよ。」 と言って、もう一度力強く握ってから、やっと僕の手を解放した。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 と言ってしまった自分に少し腹が立った。 言われた相手が、ふむと頷き、満足げな笑みを浮かべたのを見逃さなかった。 重光は、そんな僕の気持ちなどおかまいなしで、すでに、新しい訪問者を皆に紹介して回っているところだった。 重光への怒りではなく、自分の自信のなさに腹がたったのかもしれない。 本当に自信がないのだ。 まったく無名だったのが、連作が評判になって少し売れ出したころは有頂天だった。 何しろ、それまでの生活ときたらひどかったから。 楽しかったけど、貧しかった。 家賃や電気、ガス代の滞納。コンテを買うにも財布と相談する日々。何より辛かったのは、創作のための貴重な時間をバイトでけづられることだった。 まあ。なるようになるさ。と言う持ち前の気質で乗り切ってはいたけれど決して楽ではなかった。 それが連作のヒットのおかげで一変した。 こちらからわざわざ売り込みに行く必要はなくなり、買いにきてくれる画商たち。新しい家。専用のアトリエ。グリーンシートやビジネスクラスでの旅。 だが、あれは、違うのだ。あの連作は。 すぐに不安が訪れた。他の作品は、売れるのだろうか。 僕の不安を打ち消すように、連作以外の作品も徐々に評価が高まってきていた。 人の評価と言うのは恐ろしいものだ。何かのきっかけで、ころっと変わってしまう。 それまでは、見向きもされなかった過去の作品までが、高い値で売れ始めた。 パーティは、退屈そのものだった。 長々と自慢話を続ける重光のあいさつ。 大げさで陳腐な来賓の祝辞。 自分は芸術の良き理解者であり芸術家の良き保護者であると自負し、それを他人に認めてもらいたい人々。次はどの画家が値上がりするのか鵜の目鷹の目で探している連中。彼らに餌をまく輩。少しでも自分と自分の作品を売り込もうと躍起になっている昔の僕。それを遠目で見ている退屈そうな「芸術家」たち。 そんな人々でいっぱいの会場から早く開放されたいと思った。 出なかったのは、きっかけが見つからなかっただけ。 仕事のほうは、一月のオフを決めていた。 たまに休んだ方が、創作意欲が湧いてくるという当たり前のことを当たり前にできるようになっていた。 そんな時、彼女が目に飛び込んできた。 『床にはいつくばる女』 そんなタイトルが浮かんで微笑した。 起毛が芝生ほどもある高級じゅうたんの上に四つんばいになっている赤いワンピースの女。となりには、カクテルグラスを乗せたトレイを持ったままのボーイが決まり悪そうに立っていた。 「どうして、こんなに毛が深いのよ。」 女の声が聞こえた。 「どうしました?」 声をかけた。 「ちょっと!近寄らないでよ!!」 小さくとがった声。 「?」 「近寄らないでていってるの!半径一メートル以上はなれてよ!」 「?」 また近づいてしまった僕に、彼女は顔をあげて言った。 「近寄らないで!コンタクトを落としたのよ。」 睨まれて、一瞬どきっとした。 だって、中森明菜似の美人。 同時に、彼女の襟の上に、光るものが見えた。 「じっとして。」 「何よ。近寄らないでて言ってるでしょう!」 「しっ。見つけものはいつも身近なところにあるものですよ。お嬢さん。青い鳥のように。」 僕は、手を伸ばして、襟の上の捜し物を指でつまみあげ、彼女の前に差し出した。 「あー。」 睨みつけた顔が一気に笑顔に変わる。 「ありがとう。」 無邪気な笑顔を大人の女のほほ笑みに変えて、彼女は言った。 「どういたしまして。」 立ち上がろうとする女に手を出して助けようとしたが、彼女は僕の手にはつかまらず、一人で立った。 困り顔で突っ立っていたボーイがにこやかにカクテルを勧めてくれて、ドライマティーニを飲んでいる間に彼女は消えた。 「変な女。でも、美人だったなあ。」 しばらくして、僕も会場を出た。 フロントで、電話をかけている先ほどの女を見つけた。 「やあ。」 親しげに声をかけると、彼女は、一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに、思い出したという顔に変わった。 「さっきはどうも。まだ何か?」 警戒している様子。 ガードが硬いのか? 「いやあ。僕も、パーティをエスケープしてきたんだ。」 「そう。」 そっけない返事。 嫌われるようなこと、何かしたっけ? 「君もでしょう?つまらないパーティだった。」 「私?私は、そのつまらないパーティを取材に来た新聞記者なの。」 美人の上に、新聞記者か。 自分の才能と美貌を鼻にかけてるタイプ? 「つまらないパーティを取材して、つまらない記事を書くのかい。」 飛んできた平手を、すんでのところで受け止めた。 さっきよりも怖い顔で僕を睨んでから、彼女は言った。 「そうよ。つまらないパーティで見たつまらない人々のことを、さも、立派な紳士淑女の集まるパーティとしてね。自分たちだけが、芸術の理解者という顔をした連中。それにたかるハイエナの群れ。そのくせ、みんな、不安でたまらないのよね。その不安を打ち消すために、 あんなふうに集まって、みんなで認め会うの。俺たちは仲間なんだって」 「うまい表現をするね。」 素直に言って、笑った。 「そりゃ。記者だもの。」 彼女もほほ笑む。 これで講和。 「はじめまして。小林正弘です。」 「藤原夏美。」 手を出して握手を求めたが、彼女は僕の手を無視した。 「ねえ。私、急いでるの。もう、行ってもいい?次の取材が待ってるのよ。」 「送ってもいいかい。」 「聞こえなかったの?取材があるのよ。」 おいおい。誤解するなよ。 「だから、その取材先まで、送ってくよ。僕の車で。」 「あなたのおんぼろ車で?」 おんぼろ車だって? ランチア・ストラトスだぜ。 いいさ。百歩譲るよ。だって、美人なんだ。 「そうかなあ。まだ、おんぼろじゃないよ。送ってもいいかい?」 「OK!」 ランチァは、珍しく空いている首都高を快適に飛ばした。 「前言撤回するわ。おんぼろじゃないものこれ。」 「ありがとう。」 「画家なんでしょう。さっき、主催者の人が紹介して回ってたのを聞いたけど。」 「なんだ、知ってたのか。でも、画家じゃないんだ。版画家。」 「どっちにしても売れっ子なのね。画伯っていってたもの。」 「そんな、大したものじゃないよ。」 「そうね。そんな感じ。」 夏美はうれしそうな笑顔を見せた。 彼女は、普段は文芸を担当しているのだが、今日、ここに来る予定だった美術の担当者が急きょ他に回ってしまって代役としてきたのだと言った。 「あれは、本当に新聞に載るほどのそんなに大したパーティなのか?」 と聞くと、笑いながら、 「そうらしいわよ。」 と言った。 「で、どうだった、実際の感想は?」 「最悪。でも、まあ、こんなもんじゃないの。」 顔を見合わせて、ほほ笑んだ。 「ねえ。ちゃんと前を見て、運転してよ。」 「わかってるよ。」 空いていた首都高とランチァのおかげで、僕と彼女のドライブは、短いものに終わった。 湾岸線から、環状線、そして、5号。 池袋で高速を降り、のっぽビルの近くで車を止めた。 別れ際に連絡先の電話番号を聞くと、夏美は笑って、 「縁があったらまた会いましょう。」 と言った。 若いのに古風なことを言う娘だなあ。 縁があったら。 僕も好きな言葉だ。 「そうだね。縁があったら。」 そう言いつつも、僕は、名刺を渡した。 版画家 小林正弘 住所、電話、携帯。 夏美は名刺を受け取ると、ちらっと見ただけで、すぐにハンドバッグの中に入れた。 「待たせてごめん。」 背中から声をかけると、橋本は振り返って、 「僕も今来たところですから。」 とお決まりの台詞を返した。 そのホテルバーは東京で大好きな場所の一つだった。 バーテンダーたちの後ろが大きなガラス窓になっていて、前を見て酒を飲みながら、カウンター越しに新宿の夜景が一望できるようになっていた。 「先生。何か、いいことがあったみたいですけど。」 隣の席に坐った僕に、橋本が言った。 「え。どうして?」 「だって、いつもは、ただ、『どうも』っていう挨拶だけなのに、今日は違ったじゃありませんか。」 「そう言やあ、そうだね。」 僕は少し照れる気持ちを笑い飛ばした。 注文を聞くまでもなく、バーテンダーは僕の前にショットグラスのターキーとペリエウォーターを満たしたチェイサーを並べて置いた。 「で、何があったんですか?あれほど、行くのを嫌がってらしたパーティなのに。」 「実はね、」 僕は、夏美のことを橋本に話した。 「へえ。そんなに美人なんですか?」 「かなりのね。」 「へえぇ。でも、美術担当の記者なら会ったことあるかも。」 「いや。多分、ないね。代役だと言ってたから。」 「そうなのか。でも、ドラマみたいな出会いですね。コンタクトをひらってやるなんて、出来過ぎのドラマみたいだ。」 「B級のね。あんなこと始めてさ。実際に、自分にその順番が回ってくるとは思ってもなかった。」 言いたくって言えなかったことを僕が変わりに言ってやったので、橋本は少し複雑な顔をして笑った。 「でも、彼女は、怪我の功名で、先生にインタビューできるチャンスを得たってわけだ。」 「しなかった。」 「え?インタビューしなかったんですか?せっかくのチャンスなのに。」 「僕のことを知らなかったらしい。」 「えー。」 橋本は大げさ過ぎるほどに、驚いて見せた。 僕は、橋本のそんな大げさな話ぶりが気に入っていた。目立たない男が、一生懸命に自己アピールしたがっているのがよくわかったから。 「マスコミ嫌いで通ってる小林画伯にインタビューできるせっかくのチャンスなのになあ。」 「だから言ってるだろう。代役なんだ。」 一時間ほど飲みながら話して、日付が変わる前に、バーを出た。 例のことを聞くと、まだ調査中だがもうじきわかると思うというあいまいな答えが返ってきた。 美術館に並んでいる現代美術のいくつかのもの。憎悪や、嫌悪感や、怒りのマグマが、無秩序に爆発したような作品が僕は嫌いだ。 世間がそれを大げさに評価するのを咎める気はないが、とにかく、嫌いなんだ。 僕にとって、芸術や美術とは、人の心に、やさしさや思いやりや希望や、そういった素晴らしいものを喚起してこそ、意味があるものだった。 なら、お前の作品はどうだ。お前の版画は、人の心に、やさしさや思いやりや希望を喚起するのか、と、問われれば一言もない。 みな、そのレベルにはほど遠かった。 連作を除いては。 |
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