やだー。 カラス。 真っ黒だね。 気持ち悪い。 縁起も悪いんだよ。 ごみ袋を散らかすしね。 人間たちが、そんなふうなことを言って自分たちのことを嫌っていることを、クロウは知っていました。 他のカラスたちは、そのことを別に何とも思いませんでしたが、クロウはとても悲しく思っていました。 僕は、人間と友だちになりたいんだ。 人間たちは、僕たちを嫌い、僕たちを見ると、石を投げたり、追い払ったりするけど、それは、僕たちが人間と友だちじゃないからなんだ。とクロウは思いました。 仲間のカラスたちが止めるのも聞かずに、クロウは、よく人間の側に近づいていくのでした。 カラスのように黒いスーツを着た立派な身なりの紳士が歩いているのを目にして、クロウは近づきました。 この人なら、きっと、僕のことをわかってくれるかもしれない。だって、どこから見たって、立派な人間だもの。 クロウは思いました。 クロウが側に降り立つと、紳士は嫌な顔をして、通り過ぎようとしました。 クロウは、友だちになろうよ、と言いました。 紳士は、クロウを睨みつけて何かを言いましたが、クロウには、ガヤバヤラハーとしか聞こえないのでした。 ねえ、僕、クロウ、っていうんだよ。 クロウは叫びましたが、それでも、やはり、ガヤバヤラハー。 紳士は、そのまま通り過ぎていきました。 同じ色をしているから、きっと友だちになれると思ったのに。 クロウは、紳士の後ろ姿を見送りながら思いました。 別の日、クロウは、赤ん坊を抱いた若い婦人に近寄りました。 赤ちゃんはどんな顔をしているのだろう。かわいいかなあ。きっとかわいいんだろうなあ。 クロウは、あまりにも近くを飛び過ぎてしまいました。 キャー。ギャー。 婦人は、大声を上げ、赤ん坊は、泣きだしました。 近くにいた数人が寄ってきて、上着やかばんを振り回して、クロウに何かを叫びました。 ガヤバヤラハー! ガヤバヤラハー! クロウは、怖くなって飛んで逃げました。 別のある日には、こんなこともありました。 クロウが、影踏みをしながら遊んでいたときです。 ピョンピョンピョンクロウが飛ぶと、地面に映った黒い影もピョンピョンピョン。 片足ケンケンピョンピョンピョン。 すぐ側にいるのに、捕まえられないよ。 ピョンピョンピョン。 すると、数人の子どもたちがゆっくりと近寄ってくるのが、ちらっと見えました。 あれ。友だちになりに来てくれたのかな。 子どもたちは、抜き足差し足できます。 僕はもう気づいているのにな。だけど、もうしばらく、気づかないふりをしよう。驚かせるといけないから。 子どもたちは2メートルほどのところまで近づくと、中の一人が大声を上げ、それを合図に、みんな一斉に手にした石をクロウめがけて投げつけました。 あ、痛たたっ。 石のうちのいくつかがあたって、クロウは、声を上げました。 子どもたちは、笑いながら、木の棒を振り回して、クロウを追いかけてきました。 ヒャーッ! クロウは、やっとの思いで逃げ出しました。 どうして、あんなにひどいことをするんだろう。 石が当たって傷着いた羽根をくちばしで羽繕いしながら、クロウは、涙を浮かべました。 僕は、友だちになりたいだけなのに。 採石場の砂利の山の上で休んでいたクロウのところに、心配をした両親がやって来ました。 ひどい目にあったのね。かわいそうに。 母親は、目に涙をためて言いました。 ええ。ひどい目に。 クロウはうなだれて言いました。 でも、もう大丈夫。怪我もしなかったからね。 それを聞くと、母親は、安心したように、少しほほ笑みました。 それで反省しているんだろう。 父親は思慮深い目をクロウに向けて言いました。 お前はカラスのしきたりから学ばずに、人間に近づいて、ひどい目にあった。一度の失敗は仕方がないさ。若い頃にはいろいろと経験したほうがいい。でも、大切なのは、その経験を次の行動に役立つ教訓にすることなんだ。私の言っていることがわかるかね。クロウ。 はい。父さん。 クロウは素直に頷きました。 父親は、にこりと頷いて、続けました。 人間は器用な手でいろいろなものを作って便利に暮らしている。我々カラスには、いい頭と何処にでも飛んで行ける立派な羽根がある。お互いに、それで満足しているんだよ。それでいいじゃないかね。これ以上、何をのぞむ必要があるんだ。お互いに自分たちに満足しているんだから、下手に相手に近づいて、お互いの平和を乱す必要もないだろう。 深い思慮に富んだ父親の太い声は、説得力を持って、クロウの心に響きました。 クロウは、父親の言う通りだと思いました。それで、これからは、両親の望むような立派なカラスになろうと決心しました。 クロウがそのことを告げると、両親は安心をして、飛び立ちました。 立派なカラス。 きちんと羽繕いのされた黒光りする羽根で優雅に空を飛び、餌がどこにあるかをきちんと覚えていて、危険があれば、すぐに飛び立って危険を避けることができる。一族に伝わるいくつかの詩を暗記し、言い伝えを受け継いでいくことも忘れない。いい配偶者を見つけて、立派な子孫を残す。 そんな、誰からも尊敬されるような立派なカラスになろう、とクロウは自分に誓いました。 さっそく、実践です。 クロウは、がんばりました。 いつも、長い時間をかけて羽繕い。黒光りする羽根で、できるだけ、優雅に飛ぶのです。 餌のある場所も、すぐに覚えました。いつ行けば、そこに一番餌があるのかも。 仲間のカラスたちから、一目置かれる存在になるのに、時間はかかりませんでした。 何しろ、仲間たちの多くと来たら、その日その時をただ何となく生きているだけ。目的など持っていないのです。 クロウが行くところには、餌があるぞ。 クロウについて飛べば間違いない。 危険があれば、すぐに気づいて飛び立つからね。 クロウに着いていくことさ。 みんなが口々にそう言って、クロウについて飛びました。 けれども、彼らと友だちになれないことはすぐにわかりました。 ある日、みんなで餌をついばんでいると、ブルドーザーがやって来て、けたたましく、クラクションを鳴らしました。 クロウも一生懸命に餌を食べていて、ブルドーザーが近づいたことに気づいていなかったのです。 みんなは、あわてふためき、てんでばらばらな方向に、飛び立ちました。 誰の目にも、すぐ目の前の空以外映りません。 クロウは、あわててパニックになっている年老いた者や幼い者を気遣い、彼らが飛び立つのを確認してから、自分も飛び立ちました。 危険が去った後で再び餌場に舞い戻ったとき、クロウは、みんなに言いました。 みんな仲間だろう。友だちだろう。どうして、他の仲間のことを自分より弱い友だちのことをいたわれないんだい。 だって、怖かったんだもん。 だって、仕方がないじゃないか。 だって、自分が一番大事なんだ。 みんなは、ガヤガヤガヤとそう言って、クロウの言ったことが、さも、馬鹿げているかのように笑いました。 クロウに励まされた年寄りや子供までが、ガヤガヤガヤの中に加わって、大声で笑う始末。 クロウは悲しくなりました。 みんな勝手だなあ。自分のことばかり良ければ、それで満足なんだ。 クロウは、悲しい気持ちを抱いて、公園に降り立ちました。 町の外れにある広い公園。クロウの一番好きな場所の一つでした。 手入れされた美しい花壇と彫刻。 とりわけ、公園の中央に立っている少女のブロンズ像が、クロウは好きでした。 人間はやっぱり素敵だなあ。 そりゃあ、自分の羽根で空を飛ぶことはできないけれども、こんなに、生き生きとした可愛い少女のブロンズ像を自分の手で作るんだもの。 クロウは、ブロンズ像の台座の下に立って、見上げました。 仲間のカラスや無遠慮な鳩たちは、像の上にとまったり、頭の上にフンをしたりしましたが、クロウは、決して、そんなことはしませんでした。 素晴らしい芸術に敬意を表わすことを心得ていましたから。 クロウは、ブロンズ像の前で、求愛のダンスをしました。 胸を張り、羽根を広げ、優雅に跳ねます。 アン・ドゥ・トロワァ。 アン・ドゥ・トロワァ。 クロウは、夢中で舞いました。 美しいものへの最高の賛辞として。 パチパチパチ。 拍手の音が遠くから聞こえました。 見ると、公園の隣に建っている病院の窓から、女の子が、こちらを見て、拍手をしているではありませんか。 クロウは、少し照れながら、片方の羽をたたみ、もう片方の羽根で地面をはくような仕種をして紳士のおじぎをしました。 そして、女の子のいる窓に向かって飛び立ちました。 「やあ。はじめまして」 窓辺の屋根の上に降り立って、クロウは言いました。 女の子は、少し戸惑ったような顔をしましたが、すぐに笑顔になって、 「はじめまして」 と言いました。 「人間なのに、ちゃんと話せるんだね。」 クロウが驚いたように言いました。女の子の言葉は、ガヤバヤラハーではなく、ちゃんと聞こえたのです。 「カラスなのに、ちゃんとお話しができるのね。」 女の子も驚いた顔で言いました。カラスは、クワァクワァとしか言えないものだと思ってましたから。 クスクスクス。 クロウと女の子は顔を見合わせて笑いました。 「僕、人間は、カラスとは話ができないのかと思ってたよ。」 「私、カラスは、人とはお話ができないと思ってたわ。」 クスクスクス。 「でも、あなたのダンスを見てたら、とてもあなたとお話がしたくなったの。」 「僕もそうさ。僕のダンスに拍手をしてくれた最初の人だから。君と話がしたいな、って思ったんだ。」 クロウは、ピョンピョンピョンと跳ねて、窓の桟に立ちました。 クスクスクス。 「あ。そうだ。僕、クロウ。」 クロウは、背筋をきちんと伸ばして、ぴょこんとおじぎをしました。 「私は、綾子。みんなは、あやちゃんって呼ぶわ」 「はじめまして。あやちゃん。」 「はじめまして。クロウ」 あやちゃんが、おじぎをすると、左右の三つ編みが揺れました。 バタンと病室のドアが開いて、女の人が入ってきました。 「キャーーー!」 女の人は、窓辺のクロウを見るなり、大声を出しました。 その声に、クロウも、びっくり仰天です。 「まあ。カラスなんて、縁起でもない。」 シッ、シッ、っと言って、女の人は、持っていたハンドバッグを振りました。 クロウは、飛び立つ準備をしました。女の人の言っていることは、ガヤバヤラハーとしか聞こえないのです。怖くて怖くて仕方がありません。 その時です。 「ママ。やめて。」 と叫んで、彩ちゃんが女の人の手を押さえました。 「ママ。お友だちなの。そんなふうにしないで。」 あやちゃんがそう言うと、女の人は、少し落ち着いて、 「でもね。あやちゃん。カラスなのよ。」 と言いました。 「だけど、お友だちなの。」 「いけません!」 女の人はそう言って、もう一度、クロウに向かって、ハンドバッグを振り上げました。 クロウは飛び立ちました。何しろ、女の人が、ガヤバヤラハー、ガヤバヤラハーと叫びながらハンドバッグを振り上げてくるのですから。 「クロウ!」 あやちゃんの呼ぶ声が後ろで聞こえました。 「ママなんて、嫌い!」 っていう声も。 クロウが、さっきいたブロンズ像の足元に立って、見上げると、もう、あやちゃんの窓は閉じられていました。 せっかく友だちになれるかな、って思ったのになあ。 でも、待てよ。さっき、あやちゃんは言ったっけ。 お友だちなの、って。 そうだ、僕らは、もう、友だちなんだ。 クロウは、うれしくなりました。 そして、何度も繰り返して言いました。 友だち。友だち。 しばらく、あやちゃんの窓を見ながら、立っていましたが、開く気配はありません。 夕方です。お日さまが、西の山に沈もうとしていました。 もう寝ちゃったのかな。 クロウは、自分も、ねぐらに帰ることにしました。 ねぐらに帰っても、クロウは、あやちゃんのことを思い出して、なかなか寝つかれませんでした。 ママと呼んでいたのだから、あの女の人は、あやちゃんのお母さんなんだな。 でも、ママと喧嘩をしてまで、あやちゃんは、僕を守ろうとしてくれたんだ。 それは、本当でした。クロウが、飛び立った後のあやちゃんの病室は大変なものでしたから。あやちゃんは、ママに抗議して、なかなか泣きやまずに、そのうち、熱が上がってしまいました。お医者様がやって来て、鎮静剤という注射を打ちましたが、それでも、なかなか、あやちゃんは泣きやみませんでした。クロウは、そのことを後になって、あやちゃんから聞きました。 あそこは、病院と言って、病気になった人や怪我をした人がいるところなんだけど、あやちゃんは、病気なんだろうか。 そういえば、青白い顔をしていたものなあ。だったら、かわいそうだなあ。 クロウは、まるで、自分のことのように、あやちゃんのことが心配になりました。 友だち、ってそういうものなのです。 次の朝。 朝食を済ませると、きちんと羽繕いをして、クロウは、あやちゃんの窓を訪ねました。 窓は閉じられたままだったけど、あやちゃんは起きていて、朝ごはんを食べているところでした。 クロウは少しためらいましたが、くちばしで、コンコンコンと窓をノックしました。 「あー。クロウ。」 あやちゃんは、そう言ってほほ笑むと、急いで窓を開けてくれました。 「おはよう。あやちゃん。」 「おはよう。クロウ。」 お互いに、顔を見合わせて、クスクスクスと笑いました。 「昨日は、ごめんね。クロウ。ママのこと。」 「いいよ。怒ってないよ。」 「良かった。」 「うん」 クスクスクス。 「朝ごはんの途中だったんだね。」 「うん。でも、もう、いらないの」 トレイの上には、まだたくさんの食事が残っていました。 「でも、食べないと、元気が出ないよ。」 「だって、おいしくないんだもの。」 「それでも、食べなくっちゃ。」 「そうね。まりこさんもそう言うの。食べないと元気になれない、って」 「まりこさん。」 クロウは、誰という顔で、あやちゃんを見ました。 「まりこさんはね、看護婦さんなの。とっても、いい人なのよ。お友だちなの。」 「そうなのか。」 「まりこさんにはね、クロウのこともお話したの。いい友だちができて良かったね、って言ってくれた。」 「へえ。」 まりこさん、ってどんな人なんだろう。 クロウは思いました。 コンコン。 ドアがノックされて、クロウはあわてました。 また、あやちゃんのママが入ってきて、追っ払われるのではと思ったのです。 「大丈夫よ。きっと、まりこさんだから」 あやちゃんは、そう言ってから、ドアの方に、「どうぞ」と言いました。 ドアが開いて入ってきたのは、白い服を着た若い看護婦さんでした。 「あらまあ。」 まりこさんは、クロウを見るなり、目を丸くしました。けれども、決して、怒っているのでないことは、クロウにもわかりました。 「あなたが、クロウね。」 クロウにそう言った後で、あやちゃんに、 「本当だったのね。」 っと言って、ほほ笑みました。 「そう。だから、言ったでしょう。お友だちになったんだって」 あやちゃんは、得意そうに言いました。 「はじめまして。クロウ」 まりこさんは、クロウにもほほ笑みました。 「はじめまして。まりこさん」 クロウも、あいさつをしました。 「ご飯、また、食べてないのね。」 まりこさんは、あやちゃんに言いました。 「だって、おいしくないんだもん」 あやちゃんは、急に赤ちゃんになったように、甘えた声で言いました。 「でもね。ご飯をちゃんと食べないと、病気は治らないのよ。」 「だってー」 「だってー、じゃないの。ちゃんと食べなくっちゃ。あなただって、そう思うわよね。クロウ」 まりこさんは、クロウを見ました。 「そうだよ。あやちゃん。ご飯はちゃんと食べないと。」 クロウは言いました。 「ほら。クロウだって、そう言ってるよ。」 「でもー。」 あやちゃんは、困った顔をしました。 「だったら、こうしたら。クロウと半分づつ食べるの。例えば、この卵焼きをね、こうして半分に切って。半分は、あやちゃん。半分は、クロウ。」 そう言いながら、まりこさんは、卵焼きを半分に割りました。 「どう。」 と言うまりこさんに促されるように、あやちゃんは、 「うん。」 まりこさんは、それを聞くと、卵焼きを掌に載せて、クロウにくれました。 まりこさんの手が震えているのが、クロウにもわかりました。きっと怖がっているのです。仕方のないことだとクロウも思いました。何しろ、クロウのくちばしは、鋭くとがっていて大きいのです。 クロウはできるだけまりこさんを驚かさないように、ゆっくりとくちばしを下げ、くちばしの先で、慎重に、卵焼きをはさみました。 そして、また、ゆっくりとくちばしを上げると、器用に、卵焼きを食べました。 まりこさんは、ほっとしたように、小さく息を吐きました。 それを見たクロウは、誰にも気づかれないように、クスっとほほ笑みました。 卵焼きはとてもおいしくって、舌がとろけそうな味でした。 「さあ。クロウは食べたわよ。あやちゃんも食べて。」 まりこさんがそう言うと、あやちゃんは、仕方なく、卵焼きを食べました。 「とってもおいしいね。」 卵焼きをゴクリと飲み込んだ後で、クロウがそう言うと、あやちゃんは、少し照れたように頷きました。 「じゃあ。今度は、ハム。」 まりこさんは、ハムも二つに切って、クロウに半分をくれました。 クロウが食べるのを見て、あやちゃんも食べました。 二人はそうして、次々にご飯を食べていきました。 途中からは、まりこさんではなく、あやちゃんが、半分にわけてクロウにくれました。 クロウに食べられないスープは、あやちゃんの担当。その代わりに、クロウは、パンを少し多めにもらいました。 おなかはすいてはいませんでしたが、こんなごちそうとあっては別です。クロウがいつも食べているのは、残飯ばかりでしたから。 クロウは、喜んで食べました。 「ほら。食べられたじゃない。全部。」 食べ終わった後で、まりこさんが言いました。 トレイの上にはすっかり空になったお皿。 「ほんとうだ。」 あやちゃんが叫び、みんなで、顔を見合わせて笑いました。 「ねえ、空を飛ぶのって、どんな気持ち。」 まりこさんが、食べ終わったトレイをもって部屋を出ていくと、あやちゃんが言いました。 「どんな気持ち、って、そりゃあ、とても、いい気持ちさ。」 「いいなあ。私も飛びたいなあ。」 「人間には無理だよ。」 クロウは言いました。 「そうだよね。」 あやちゃんは、悲しそうな顔をしました。 クロウは、困ったなあ、と首をかしげました。 「ねえ。空の上からは、何が見えるの。」 「うーん。いっぱい見えるよ。下から見るのと空の上から見るのとじゃ、かなり違うんだ。」 クロウは、空の上から見ると、人も犬も、自動車も大きな家も、みんな豆粒ほどに見えることを一生懸命あやちゃんに話しました。 「えーーっ。豆粒なの。」 あやちゃんは、可愛い目を丸くして聞きます。 「そう。豆粒より小さい米粒のときもあるよ。それが、動き回ってるのを見てるととってもおもしろいんだ。」 クロウは得意でした。 うれしくなって、次から次に空の上から見えることを話しました。 晴れた日には、海は、キラキラと輝く大きな鏡のように見えること。 雨の日、地上がまだ濡れる前に、羽根の上に雨が降ってくること。 朝には、誰よりも早くお日さまに会えるし、夕方には、ずっと後までお日さまの見送りができること。 そんな話をしているときに、コンコンとノックがあって、まりこさんが入ってきました。 何だか、さっきとはちがったようすのまりこさん。 「さあ。もう、今日は、これくらいにして、クロウとさよならをして。」 まりこさんは、とても言いにくいことを言うときにみんながそうするように、感情を込めずに早口で言いました。 「どうしてー。いやだ。」 あやちゃんが言いました。 「もっと話したいことがあるのに。」 クロウも言いました。 「もうすぐ、ママのいらっしゃる時間でしょう。その時に、クロウがいると・・・」 まりこさんは、とても言い辛そうにそう言った後で、申し訳なさそうにあやちゃんとクロウを眺めました。 本当は、まりこさんも言いたくはないんだ。 クロウにはわかりました。 「ママなんか、嫌いだもん。」 あやちゃんは言いました。 「そんなこと言っちゃ駄目。ママは、あやちゃんのことが心配なのよ。」 「でも、クロウは、あやのお友だちなのに。」 「でもね。カラスは、縁起が悪いって昔から言われてるの。もちろん、迷信なんだけどね。それでも、ママには、心配なのよ。わかってあげて。」 あやちゃんは、ぷーっとほっぺをふくらませて、まりこさんをにらみました。 「僕。また、明日も来るから。今日は、さよならしよう。あやちゃん。」 クロウが言いました。 「クロウ。」 あやちゃんは、泣きそうな顔をして、泣きそうな声で言いました。 「大丈夫だよ。明日また来るから。ね。」 クロウにそう言われて、あやちゃんは、少し納得したように、うん、と頷きました。 次の日の朝。約束通りに、クロウはやって来ました。 あやちゃんは、窓を開けて待っていました。 「おはよう。あやちゃん。」 「おはよう。クロウ。」 お互いに顔を見合わせて笑いました。 友だちって不思議です。顔を見合わせて笑うだけで、相手が何を言いたいのか、何を考えているのかわかるのですから。 まりこさんはいませんでしたが、昨日と同じように、ご飯を半分こ。 朝食が終わると、今日は、あやちゃんが話をする番でした。 あやちゃんは、病院での生活のたくさんの嫌なことと少しのうれしいことをクロウに話しました。 嫌なことは、本当にたくさんありました。毎日何度もしなければならない検温。走ってはいけないこと。大声が出せないこと。消毒薬の臭い。パジャマばかりしか着られないこと。学校は、ずっと休んでいました。 話の途中で、まりこさんがようすをのぞきに入ってきました。 「おはよう。クロウ。」 「おはよう。まりこさん。」 まりこさんは、うれしそうにほほ笑むと、空になったお皿を乗せたトレイを持って、部屋を出ていきました。 「まりこさんたら、おかしいのよ。昨日、あんなに、クロウとお話をしてたのに、実は、クロウの言ってることは、クワァクワァとしか聞こえてないんだって。」 あやちゃんは、それがいかにもおかしいことのように、笑いました。 「へえー。そうなのか。僕には、まりこさんの言ってることは、きちんと聞こえてるのになあ。」 クロウは言いました。 「まりこさんもそう言ってた。クロウは、きっと、まりこさんの言ってることはわかってるんだろうなあ、って。まりこさん、自分は、大人だから、わかんなくなってるんだろうって。」 「へえ。そんなものなのかなあ。」 あやちゃんにも、クロウにもわからないことでした。 「でもね。まりこさん、ってとってもいい人なのよ。」 「うん。」 一人と一羽は、またほほ笑みあいました。 あやちゃんは、まりこさんのことをクロウに話しました。 いつも笑顔がすてきなまりこさん。あやちゃんの話をゆっくりと時間をかけて聞いてくれるまりこさん。ときどき厳しいまりこさん。でも、それも、あやちゃんの病気が早く治るように考えてくれてるから。 ほかの人にされるととっても痛くてがまんできない注射もまりこさんがしてくれればがまんできることや、おっちょこちょいなまりこさんがときどきしてしまう失敗の話。 「へえー。すごいねー。」とか「ほんとー。」とか言いながら真剣に聞いているクロウに、あやちゃんは一生懸命に話しました。 やがて、時間が来て、クロウが帰ることになっても、あやちゃんは、昨日のようにだだをこねたりしませんでした。 だって、また、きっと明日も会えるのです。 クロウは、今まで感じたことのないよろこびを感じていました。 いつも心の中心に、あやちゃんがいるのです。 何か、他のことをしていても、今じぶん、あやちゃんは何をしているだろう、と気になりました。 まりこさんとお話をしているのかな。それとも、注射に顔をしかめているころかしら。 そして、あやちゃんのことを考えていると、楽しくて仕方のない気持ちになるのでした。 やっぱり、友だちって、いいなあ。 クロウは、心の中でつぶやきました。 毎日毎日、同じように、クロウは、あやちゃんを訪ねました。 見たり聞いたりしたことを、あやちゃんに話します。 おいしい桃は、高い木の枝で取れること。秋の紅葉は、低いところの枝から始まること。 カラスの仲間たちの話。昔々、この国の最初の王様がこの世に現れたとき、ご案内役をしたのが、クロウのご先祖様だったという話。 あやちゃんには、見たことも聞いたこともない話でした。 あやちゃんもクロウにいろいろなことを話しました。 本や絵本で読んだ話や、学校で勉強したこと。 パパやママやまりこさんのこと。 しんちゃんのこと、幼稚園のこと。学校のこと。 友だち同士は、お互いに目を輝かせて、相手の言うことに耳を傾けました。 そんなある日のこと、クロウがいつものようにあやちゃんの窓を訪れると、部屋には、まりこさんがいました。 「おはよう。クロウ。」 と言ったのは、まりこさんでした。 その声で、目を開けたあやちゃんが、横になったまま、頭を傾けて、窓の方を見ました。 力のない目。眠たそうにも見えました。 「おはよう。あやちゃん。まりこさん。」 クロウが言うと、あやちゃんは、ゆっくりと体を起こしました。 顔色は青白かったけど、目は少し元気になりました。 「おはよう。クロウ。」 一生懸命に元気を装って言いましたが、かすれたような声になってしまいました。 クロウは、真っ黒な丸い目で、心配そうに、あやちゃんの茶色い目をのぞき込みました。 「大丈夫。あやちゃん。」 クロウが言うより先に、まりこさんが言いました。 「あのね。今日。あやちゃんは、熱が出てるの。」 クロウは、まりこさんが何を言いたいのかわかりました。 それで、まりこさんが、言いにくそうにそれを言う前に、こう言いました。 「そうなのか。残念だね。でも、明日も僕、きっと来るから。だから、早く、熱が下がるように大人しくしててね。あやちゃん。」 けれども。あやちゃんは聞き入れませんでした。 「駄目。クロウ。帰っちゃ駄目。」 あやちゃんは、泣きそうな声で言いました。 ふと見ると、目には、もう、今にもあふれそうなほど、涙がたまっていました。 「ねえ。まりこさん。お願い。少しだけ。少しだけでいいの。」 まりこさんは、形のいいあごに指を当てて、困ったなあという顔をしました。 病院の中には、まりこさんはあやちゃんのわがままを聞き過ぎるという人もいましたが、まりこさんはそうは思っていませんでした。 どうして、わがままなの。遊びたいとか、外に出たいとか。そんなの全然わがままじゃないじゃない。子供なんだもの。そう思うのが当然のこと。それに、もし、わがままだとしても、誰に、そのわがままを責める資格があると言うの。あやちゃんは、小さい体で四六時中、一生懸命に病気と闘ってるのよ。大人だって、辛抱できないような痛みやだるさや発熱と。 そう思うと、まりこさんは、いつも、あやちゃんをぎゅっと抱きしめたくなるのでした。 もう、答えは出ていました。 「それじゃあ、30分だけ大目に見ましょう。30分だけよ。」 まりこさんは、明るく笑いながら、わざとひょうきんに、困ったなあ、という顔をしてみせました。 「ありがとう。まりこさん。」 あやちゃんは言いました。 「ありがとう。まりこさん。」 クロウも言いました。 「ねえ。クロウ。何か、とっておきのお話をしてよ。とても、きれいなものの話とか。」 「そうだなあ。きれいなものか。」 クロウは少し考えました。あやちゃんは、わくわくして待ちました。 「虹を見たことあるかい。あやちゃん。虹は、とってもきれいだ。」 クロウがどんなきれいなものの話をしてくれるのかと期待していたあやちゃんは、少しがっかりしました。 そりゃあ、虹は、とってもきれいなものですが、あやちゃんは今までに3度も虹を見たことがあったからです。 最初に見たのは、いつのことだったでしょう。 お父さんとお母さんとあやちゃんの三人で、ピクニックに出かけたときに見た大きな虹。 山の上にかかった七色の光の帯。 「あれは、虹っていうんだよ。」 と教えてくれたのはお父さんでした。 「虹。虹」 と、あやちゃんは、はしゃぎ回りました。 次は、幼稚園の窓から見ました。 「あっ。虹。」 大きな叫び声を上げたのは、大好きなしんちゃんでした。 梅雨の晴れ間、ビルの向こうに見えた大きな虹でした。 しんちゃんの笑顔。ジャングルジム。アジサイの花。 最後に見たのは、自動車の窓から。 場所も時も、しっかり覚えているのに、その時の虹は、思い出そうとしても、とてもうっすらとしか思い出せないのでした。 とってもうすい虹だったから。 いえ、そんなことはありません。はっきりとした虹でした。きちんと七色のそろった。 あやちゃんの心が、すっかり悲しみでいっぱいだったからでした。 おうちをはなれ、病院に向かう自動車。 病院に行ってしまえば、もう当分おうちには帰れないのです。 元気だったときには思いもよらなかった深い悲しみでした。 人間は不思議なものです。悲しみのどん底にいるときには、普段なら大好きな、どんなにおいしいケーキを食べても、おいしいと感じる気持ちがとっても弱くなってしまうのです。 「虹なら見たことがあるわ。3度も。」 3度がとてもすごいことのように、あやちゃんは自信たっぷりの口ぶりでそう言うと、今までに見た虹のことをクロウに話しました。 もちろん、しんちゃんのことも。 クロウは、ククッっと小さく笑いました。決してあやちゃんにばれないくらいに小さく。 だって、クロウは、今までに30回以上も虹を見ていたのです。 「でも、僕がこれから話す虹は、そんな普通の虹じゃないんだ。」 「えっ。普通の虹じゃないって。」 あやちゃんは、クロウの丸くて黒い目をのぞき込みました。 クロウは、もったいぶったように、少し間を空けてから、 「夜の虹なんだ。」 と言いました。 「夜の虹。」 不思議な呪文の言葉を聞いたときのように、あやちゃんは繰り返しました。 クロウが頷くと、あやちゃんの顔に、また、すばらしい明るさが戻ってきました。 「それはね。」 クロウは、ゆっくりと話し始めました。 カラスたちが語り継いでいる夜の虹の話。 この国の最初の王さまが、一度だけ戦さに敗れて落ちていったときのことです。 道案内役だった三本足のカラスも、あわてていて、道を間違えてしまいました。 おまけに夜でした。 月はありましたが、その光だけでは、どうしても道がわかりません。 三本足のカラスは焦りました。 周りには、敵の追っ手が迫っていたのです。早く、逃げ道を見つけなくては。 何とかしなければ。 三本足のカラスがそのときどうしたのかは、とても大切なカラスだけの秘密でした。それで、クロウも話すことができませんでした。 ただ、言い伝えでは、夜の虹があらわれて、王さまの一行は、虹を目指して進むことで難を逃れたとなっているのだということだけを話しました。 夜の虹。 それは、真っ黒い絹のような夜空に描かれた淡い七色の帯。 「きれいなんだろうなあ。夜の虹。」 あやちゃんは、にこにこしながら言いました。 「そりゃあ、きれいさ。」 「クロウは、見たことがあるの。」 あやちゃんはたずねました。 「ううん。僕も見たことないんだ。」 「わたし見たいなあ。夜の虹。とってもきれいなんだろうなあ。」 コンコン。 小さなノックがあって、まりこさんが部屋に入ってきたとき、もう、クロウの姿はなく、あやちゃんはすっかり眠ってしまっていました。 あどけない寝顔を見て、クスッっと笑ってから、クロウの出ていった窓を閉め、部屋を出ていきました。 みんなにとって、幸せな一日でした。 あやちゃんの熱は下がって、ママもまりこさんもおおよろこび。もちろん、あやちゃんも。 元気になったあやちゃんは、クロウから聞いたとっておきのきれいな話を、うれしそうに、ママとまりこさんに話しました。 話の途中で眠ってしまったあやちゃんのあどけない笑顔を見てから飛び立ったクロウも幸せでした。 明日はどんな話をしてやろうか。次の日の楽しいことをわくわくしながら考えているのって、すごく楽しいものなのです。 けれども、その夜、大変なことが起こっていたのです。 朝いつものように、あやちゃんの窓を訪れて、クロウは、そのことを知りました。 クロウが、来る時刻にはいつも開け放たれている窓が、その日は、ぴったりと閉じられていたのです。 どうしたのだろうか。 クロウは窓のそばの屋根に降り立ちました。 窓の中をのぞき込むと、 あっ。 あやちゃんはベッドに横になったまま身動き一つしません。 心配そうにあやちゃんをのぞきこむあやちゃんのママとまりこさん。他の看護婦さんや、先生の姿も見えました。 透明なくちばしの形をしたマスクがつけられたあやちゃんの顔。 腕や体に幾本かのチューブも見えます。 ベッドの周りにはたくさんの機械。 窓をノックして、あやちゃんを起こそうと思いましたがやめました。今は、それをしてはいけないような気がしたのです。 クロウはどうすることもできず、ただ、眺めました。 ねえ。早く目を開けてよ。早く、お話しようよ。 ママの目は、とても悲しそうでした。 忙しそうに働くまりこさんの顔も。 「あやちゃん。」 クロウは、とうとうがまんし切れずに、叫んでしまいました。 けれども、あやちゃんは、目を覚ますことはなく、見とがめた看護婦さんによって、追い払われてしまいました。 「まあ。こんなところにカラスが。いやねえ。」 看護婦さんは窓を開け、クロウに向かって、シッシッ、と言いながら手を振りました。 あやちゃんのママは、クロウの方を少し見ただけ。 まりこさんは、何か言いたそうに、クロウを眺めましたが、結局見つめたまま何も言いませんでした。 ブロンズの少女の前に降り立ち、クロウは、あやちゃんの窓を見つめました。 「あやちゃん。」 クロウは、叫びました。 初めて会った日。あやちゃんは、あの窓から僕を見ていたっけ。 あやちゃんと交わしたたくさんの会話を思い出しました。 クロウの言葉に真剣に耳を傾けてくれた初めての人間の友だち。 あやちゃんに何が起こっているのかはわかりませんでしたが、大変なことが起こっているのだということだけは、クロウにもわかりました。 「あやちゃん。」 クロウは、何度も、あやちゃんの名前を呼びました。 何度も何度も。 その日、公園を散歩した人は、一羽のカラスが、少女のブロンズ像のそばで、クワァクワァと鳴いているのを不思議にも思わず聞いたはずです。 クロウの真っ黒な丸い目から涙が流れて、乾いた砂の地面の上にぽたぽたと落ちました。 僕は何をしているんだろう。 とても大切な友だちが苦しみながら一生懸命戦っているというのに。 そう思ったとき、クロウは、昨日の約束を思い出しました。 「きれいなんだろうなあ。夜の虹。」 あやちゃんは言いました。 「とってもきれいだよ。きっと。」 「見てみたいなあ。」 「いつか、見せてあげるよ。」 「ほんとう。」 あやちゃんは、とてもうれしそうに言いました。 「うん。」 クロウはうなずきました。 「でも、そんなことできるの。」 あやちゃんの顔が、少し曇ります。 その雲を追い払おうとして、クロウは、必死になって言いました。 「できるとも。もちろん。だって、三本足のカラスだって、夜の虹を見たんだもの。きっと、カラスにはできるのさ。」 クロウは、一生懸命にそう言うと、あやちゃんは、笑って、 「じゃあ、見せてね。お願い。」 と言ったのです。 「うん。見せてあげるよ。いつかね。」 「じゃあ、約束。」 「うん。約束。」 いつかは、今なんだ。 クロウは思いました。 こうしてはいられない。 クロウは、真上に向かって、飛び立ちました。 夜の世界を照らすお月さまに虹のことをお願いしようと思ったのです。言い伝えの中で、三本足のカラスがそうしたように。 昼間です。月なんて、どこにもありません。 だけど、クロウは、急いでいました。 だって、月はとても遠いのです。まだ空に見えない今から飛んでいっても遅いくらい。 そりゃあ、三本足のカラスのように、弓矢よりも早く飛べれば問題はなかったかもしれません。でも、クロウは、普通のカラス。 上手に飛ぶことに自信はありましたが、とても、弓矢よりも早く飛ぶなんてできないのです。 クロウは、一生懸命に羽ばたきました。 言い伝えを信じて、ひたすら飛び続けました。 街がどんどん小さくなって、やがて見えなくなっても、クロウは羽ばたきをとめませんでした。 空気が薄くなって、息がどんどん苦しくなっていきます。 翼は疲れ、体中が、火のように熱くなっても、クロウは、飛び続けました。 分厚い雲の上に出たとき、西の空に夕日が沈んでいくのが見えました。 きれいだなあ。あの夕日をあやちゃんにも見せてあげたいなあ。 体はくたくたに疲れているのに、あやちゃんのことを思い出すと、不思議に力がわいてきて、クロウは飛び続けることができました。 のどはカラカラ。体が重く、翼はもう思ったように動いてはくれませんでした。 それでも、クロウは、力を振り絞って羽ばたきました。 淡く輝くバンアレン帯に近づいたとき、とうとう、クロウは重くなった体を置いていくことを決心しました。 「お父さん。お母さんごめんなさい。お別れも言わないで出てきたりして。」 クロウはつぶやきました。 でも、悲しくはありませんでした。 すでに、クロウは大いなる約束のことを思い出していたのです。 大いなる約束。それは、すべての命が始まる前に取り決められたとてもとても大切な約束でした。 姿は変わっても命は繰り返し生まれ、別れがあってもまた会える。 覚えてさえいれば、願ってさえいれば、また、きっと会える。 誰もがわかっているはずの約束でしたが、普段はみんなわかっていることに気づかないで生きているのです。 カラスの体が、自分を離れて落ちていくのを見ながら、クロウは、その大いなる約束のことを思い出したのでした。 カラスも人間も高く飛べば飛ぶほど、いろいろなことが見えてくるものなのです。 重い体から解き放たれたクロウは、もう矢よりも早い速さで飛ぶことができました。 ひたすら飛び続けました。 どれくらいたったでしょうか。振り返って眺めると、地球は、丸くて青い星に見えました。 そのときです。 上から声がしました。 「よく来ましたね。」 見ると、いつの間にか、そこには、丸いお月さまがほほ笑んでいらっしゃるではありませんか。 「あっ。」 と、クロウは声を上げました。 クロウが、あやちゃんのことを話すと、お月さまは、とても悲しそうな顔をなさいました。 「そうですか。ここからでは、光のとどかないところがあって、私にもお日さまにも見えないものがたくさんあるのです。」 お月さまはおっしゃいました。 「あやちゃんは、夜の虹をとても見たがっているんです。僕は、見せてあげると約束をして。それで、」 クロウが言うと、お月さまは、やさしくうなずかれました。 にわか雨の雨音を聞いているうちに、不思議な眠さが襲ってきて、ママもまりこさんも、パパまでもが、眠ってしまっていました。 クロウの声が聞こえたような気がして、あやちゃんが、ふと、目を覚ましたときには、雨はすっかりあがっていました。 あやちゃんは、顔の上に窮屈に乗っかっていた酸素のマスクを取り、腕や体につけられたチューブの針を静かにはずすと、スリッパを履いて、窓辺に立ちました。 「クロウ。」 あやちゃんは、窓を開けました。 「あやちゃん。」 という声が聞こえて、空を見ると、真っ黒い絹のような空のキャンバスに、水彩絵の具で七色の筋を入れたような大きな虹がかかっていました。 とてもきれいな虹でした。 「クロウなの。」 というあやちゃんに、虹がほほ笑みかけたように見えました。 「そうだよ。僕なんだ。」 「とってもきれい。」 あやちゃんは言いました。 夜の虹のクロウはほほ笑みました。 「虹になっちゃったのね。クロウ。」 「今はね。」 「今は。」 「そう。」 「もう会えないの。」 あやちゃんは、心に浮かんだことが不安になってたずねました。 「会えるさ。いつだって。」 クロウは笑いました。 「でも、虹はいつもでないわ。」 あやちゃんは悲しくなりました。 「会えるんだ。いつだって。」 「でも。」 あやちゃんは言いました。 「僕を信じて。」 夜の虹はそう言って、あやちゃんを見つめました。 クロウを信じよう。あやちゃんは思いました。 だって、友だちは友だちに嘘は言わないもの。クロウは、約束通りに、夜の虹を見せてくれた。クロウを信じよう。 「うん。」 あやちゃんは笑ってうなずきました。 「だけど、どうやって会えるの。」 あやちゃんはたずねました。 「あやちゃんが、僕のことを思って、僕に会いたいと思ってくれればね。僕はいろいろなものに姿を変えて、あやちゃんに会いに行くよ。僕だって、とても会いたいんだからね。雨になったり、風になったり。コーヒーカップになって会いにいくかもしれないし。また、カラスの姿で会いにくるかもしれない。大いなる約束なんだ。」 「大いなる約束。わたしはどうすればいいの。」 「ただ、僕の言ったことを信じて、僕に会いたいと思っていてくれればいいんだ。」 大いなる約束のことをもうすっかり思い出しているクロウは言いました。 「わたし信じるわ。」 「ありがとう。」 夜の虹はほほ笑みました。 「それじゃあ。僕はもう行くからね。」 虹がそう言うと、あやちゃんの顔が、急に曇りました。 「行っちゃ駄目。」 「あやちゃん。また、会えるんだ。悲しい顔をしないで。悲しい気持ちでいると、大切な誰かが会いに来ても気づけなくなってしまうから。」 「うん。」 あやちゃんは、涙をじっとこらえて、一生懸命にほほ笑みました。 「ベッドに戻るまでここで見ていてあげるよ。」 とクロウが言って、あやちゃんはベッドに戻りました。 朝になって、最初に目を覚ましたのは、あやちゃんでした。 あやちゃんが体を起こそうとして、ごそっと小さな音が鳴ったとき、ママが目を覚ましました。 「おはよう。ママ」 あやちゃんは、にこにこ笑って言いました。 ママはびっくりしたけれども、大喜び。 「まあ。おはよう。あやちゃん。」 その声で、パパとまりこさんも目を覚ましました。 「おはよう。パパ。おはよう。まりこさん。」 「おはよう。あやちゃん。」 2人はびっくりした声をそろえて言いました。 あやちゃんが笑い出すと、みんなで、顔を見合わせて笑いました。 みんなが驚いたのも無理はありません。昨日の夜には、お医者様が、命が危ないと言っていたあやちゃんが元気に笑っているのです。 「ママ。おなかがぺこぺこなの。早くご飯をちょうだい。」 あやちゃんはそう言って、また、みんなを驚かせました。 あやちゃんの病気は、その後、見る見るうちに良くなって、数週間後、病院を退院しました。 その後どうなったかって。 あやちゃんは、いえ、川島綾子さんは、学校を卒業して、今では空を飛んでいます。 自分の羽根で。 いえ、まさか。彼女は、女性パイロットになったのです。 ジャンボジェット機の女性パイロット。 あなたの家のそばをジャンボジェット機が飛んでいくときには、ふと、空を見上げてみてください。 綾子さんの操縦するジャンボジェット機かも知れません。 そして、ジェット機を追いかけるように飛んでいる黒い影があったら、目を凝らして見てください。 それは、きっと、クロウにちがいありませんから。 (終) |
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