ふと思い立って、テラスに出てみると、案の定、丸い月がこちらを見ていた。 男は、月を見上げたままで、小さくほほ笑んだ。 「どうしたの」 と背中から女の声がしたが、振り返りもせず、彼は、月を見つめ続けた。 「ほら。月が出てる。明日は、晴れだ」 隣に来た女の肩を抱き寄せて、耳元でささやいた。 「愛してるよ」 「いきなりね」 「いきなりじゃないさ。ずっと愛してる」 「そうね。私も愛してる」 女はほほ笑みながら、肩に置かれた男の手の甲に、自分の掌を重ねた。 男は中居純平、32歳。女は中居静子、同じく32歳。小学校の同級生同士の二人が結婚してから3年が経っていた。 「でも、月で、明日の天気を占うなんて、科学的じゃないわね」 静子は、冗談ぽくわらった。 「そうだな」 実は、月に呼ばれた気がして・・・、と言おうと思ったがやめた。 今日は、言わなければいけない。だが、やはり、食事の後にしよう。 純平は、言葉を笑いに変えた。 静子お得意のビーフストロガノフのいい匂いが、キッチンから匂っていた。 友だちや仕事仲間が開いてくれる壮行パーティは、昨日までですべて片付けた。 政府主催のパーティも、一昨日終わった。 「外で食事をしよう」と言う静子に、「君の手料理を食べて出発したい」と言うと、静子は、喜んで同意した。 出発の前夜は、二人っきりでという心からの願いは、幸い、誰の邪魔も受けることなくかなえられた。 純平は、明日、宇宙に旅立つ。 国が打ち上げる最初のスペース・シャトルの乗組員として。 搭乗が決まったのは、4年前。 永らくの間国家的な懸案だった計画が現実化に移される段階になったとき、最初の乗組員として中居純平の名前が挙がったことに、反対するものは誰もなかった。 知能明晰、行動力と判断力に富み、リーダーシップもある。レスリングで鍛えた肉体は、研ぎ澄まされた瞬発性と抜群の持続性を兼ね備えていた。 念入りな健康診断で、OKが出ると、彼は、正式にシャトルのドクターエンジニアに任命された。 「すばらしいわ」 というのが、静子の最初の一言。 「おめでとう」 と続いた。 「ありがとう。君のおかげだ」 頭の中で何度も練習した台詞だった。リハーサル通りの台詞回しに純平は満足した。 静子は照れ臭そうに笑った。 「あなたががんばったからよ」 「君がいてくれたから、がんばれた」 純平は、上着のうちポケットから、小さな箱を取り出し、開いてみせた。さながら、儀式のように。 「まあ」 純平が何も言い出す前に、静子の目が潤んだ。 「給料の4カ月分。貰ってくれるね。結婚して欲しい」 「4カ月?普通は、3カ月でしょう」 「君は、普通じゃないから」 初恋の人と結婚できる幸せ者が全体に占める割合は極めて低い。 純平は、そのまれなケースの一つだった。 静子が転校してきたのは小学校6年の時だった。 担任の河合先生の影から顔を出した静子を見た途端、純平は、44口径のマグナムで心臓を撃ち抜かれたような気がした。いわゆる一目ぼれと言うやつ。 美しい少女の出現に、クラス中がどよめいた。 美しいとかかわいいとかいう表現を超えて、静子は、まさに輝いていた。 先生に促された静子が、教壇の上にたって挨拶をしている間も、純平は、静子を見つめたまま体中に放電を感じていた。 おそらく、他の何人もの男子生徒が同じ状態だった。 「それじゃあ、席は、クラス委員の中居君の隣に。他の人は、一段ずつずれて」 運命の女神が純平にほほ笑んだ途端に、クラス中からどっと声が上がった。 羨望と妬みとやっかみ。 けれども、そのやかましい声は、純平には届かなかった。純平は、再び、雷に打たれていた。 なりたくてなったクラス委員じゃなかった。むしろ、逆。 一週間前の選挙のとき、いたずら好きな連中が、クラス一おとなしかった純平を困らせようと画策したのだ。 それが、こんな幸運をもたらすなんて。 「中居君、ちゃんと面倒見てあげてね」 と言った河合先生の言葉が遠くで聞こえたが、純平は、放心状態。 「中居君」 もう一度呼ばれ、ハッとして、席を立った。 「はい!」 断末魔のニワトリのような甲高い声。 みんながどっと笑う。 我に返って、純平は赤面した。 「よろしくね。中居君」 隣に来た静子の声が、鈴の音のように響いた。 一時間目が何の授業だったのかは覚えていない。覚えているのは、静子と机をくっつけて、一緒に教科書を見たということだけ。 授業の間中、純平は、チラチラと横目で、静子を見た。 静子は、とてもいい匂いがした。 休み時間になると、大勢のクラスメイトが静子の側に集まってきた。 隣の席の純平の存在は、まったく無視されていた。 もっとも、純平の存在が無視されたのは、それが初めてではなかった。 と言うよりもむしろ、無視されていないときの方が、珍しいと言ったほうがいいかもしれない。 いようがいまいが、クラスへの影響は何も無し。欠席をしても、誰も気づかない。 どのクラスにもいる一番目立たない奴。それが、それまでの純平だった。 純平は、休み時間の終わりの鐘を待ち望んだ。 授業が始まると、みんなは席に戻り、純平は、静子を独り占めにした。 「ねえ、家はどこ」 授業中、小さな声で、静子が聞いてきた。 純平は、戸惑いながら、「青葉2丁目」と答えた。 「ええー。私、青葉1丁目なの」 静子が、少し大きな声を出して、純平は、ギクッとした。 いきなりの赤面。憶病なのだ。純平は、下を向いた。 1丁目は、純平にとって、学校からの帰り道だった。 だから?それで? いつもなら、そこで、言葉に詰まってしまう純平だった。 だが、今回は違った。 頭に血が昇って、顔が熱くなったが、何かに、背中を押されるように純平は言った。 「一丁目なら、帰り道だ」 「え。ほんと」 勇気を出して。 「一緒に帰ろう」 放課後、校門を出るとき、純平は、生まれて始めて、背中に羨望の眼差しを感じた。 幸福な気持ちに慣れていない純平は、どういう顔をしていいのかわからなかった。 きっと、すごく間抜けな顔をしていたに違いない。 後で何度もそのときのことを思い出して、純平は恥ずかしさに冷や汗をかいた。 初夏の風が、静子の髪を揺らして、純平は、幸せの香をかいだ。 別れ際、静子が言った。 「お友だちになりましょう」 地震が来て、長い間止まっていた時計が動き出したという話を聞いたことがあるだろう。 純平の場合が、それだった。 静子というショックで、歯車がうまくかみ合ったのだ。 そうとしか思えない。 やることなすこと、すべてがうまくいった。 静子にいいところを見せようと始めた予習復習。それまでは、触るのも嫌だった教科書の内容が、すらすらと頭に入ってきた。 静子と一緒に家で勉強するようになってからはなお更だった。 二人で始めた朝のジョギングは、純平をクラス一のランナーに変えた。 背を伸ばそうと飲み続けてきた牛乳も、それまでのつけを利子までつけて一気に返してくれた。 マイナス続きだったそれまでの人生の負債は徐々に減っていって、やがて、純平の人生はプラスに転じた。 「付き合ってくれ」とあらたまって言ったことはなかったが、いつの間にか、誰もが認める似合いのカップルになっていた。 どちらかが星でどちらかが石ころだったり、どちらかがプラチナでどちらかがブリキだったりするような、よくあるそんなカップルじゃないんだ。二人は、全然違った。 成績は二人並んでいつもトップクラス。中学でも高校でも、生徒会の委員長と副委員長を仲良く勤めた。 純平は、レスリングで県の代表に選ばれたし、静子は、チアリーダー部の部長だった。 「計画通りだ」 と純平はよく言った。 初めて計画を口にしたのは、二人が出会った日から2週間ほどたった頃のことだった。 クラスの何人か、注意深く人を観察して、何かしら話題を探している連中が、純平の変化に気づき始めていた頃。 「計画?」 二人は、純平の部屋にいた。 「うん。計画したんだ」 「どんな計画なの?」 「宇宙に行くのさ」 「宇宙?」 「うん。子供の頃からの夢なんだ」 部屋には、木星や土星、アンドロメダ星雲の写真が飾ってあった。 机の上に置かれたアポロ宇宙船の月面着陸の写真とプラモデルの着陸機。 天井からこちらを見つめているガガーリンに、アームストロング、ヤングのポスター。 本棚に並べられた宇宙図鑑に、天文年鑑、宇宙関係の専門雑誌。そして、ジュール・ベルヌの『月世界旅行』。 典型的な天文小僧の部屋だ。 「今までは、こいつから眺めているだけだった」 純平は、天体望遠鏡をなでながら言った。 「でも、これからは違う。計画を立てて、実行するんだ。まずは、勉強をすることと、体を鍛えること」 「すごいわね」 静子はうれしそうにえくぼをのぞかせた。 「協力してくれる?」 純平は言いたいことを素直に口にできるようになっていた。 「うん。私にできることなら。でも、私にできるかしら?」 静子は、顔を少し曇らせ、首をかしげた。 「できるさ。できる。できる。今みたいに、一緒に、勉強したり、ジョギングしてくれるだけでいいんだ」 「計画通りだ」 二人揃って、国立大学の目的の学部に合格したときも、純平はそう言った。 「そうね。まさに、計画通り。それで、これからの計画は?」 「まずは、学部を優秀な成績で卒業。ハーバードにも留学して、宇宙開発公社に入る。その頃にはきっと、シャトル計画も本格的になってるだろうからね。そのシャトルにのるんだ。そして、宇宙へ」 いくつかの軌道修正や急なハプニングがあったが、それは、人生を退屈させないための粋な演出、隠し味のエッセンスに過ぎなかった。 運命の女神は純平にほほ笑み続け、彼は、夢の通りに歩いた。そう、計画の通りに。 結婚を機に、静子は惜しまれながら宇宙開発公社を寿退社した。 誰からも祝福された幸せな結婚。 優秀なロケット開発のエンジニアは、家庭に入ると優秀な主婦に一変した。 「おいしかったよ。最高だった。やっぱり、君の手料理が一番だ」 「そう言って貰えてうれしいわ。宇宙飛行士さん」 静子は立ち上がって、食事の後片づけと、食後のお茶の準備をした。 ──どう言い出そうか。 純平は迷った。 言い出し方だけじゃなく、言い出すかどうかも、まだ、決めかねていた。 どうでもいいことのようにも思えた。 ──今まで、言わなかったのが不思議なくらいだ。別に大したことじゃない。ただの夢だったんだ。何を恐れてるんだ、純平。 そう自分に言い聞かせてみた。 ──大丈夫さ。なんでもない。平気。平気。おまえは、おまえの力で、がんばってやってきたんじゃないか。それとも、これまでのこと、すべてが、運命の女神のえこひいきだったとでも言うのか。 一方では、ためらいもあった。 ──今までは、言わなかったから、うまくいってのかもしれないじゃないか。すべて計画通りに。幸運をくれた女神に、いまさら逆らうこともないだろう。 打ち上げの訓練や準備が終わって、レセプションの続いたこの1週間。同じ事を何度も自問自答してきた。 堂々巡り。 今まで、長いこと、そんなことはなかった。 何をなすべきか。やるべきことはいつも、正確なカーナビゲーションシステムのように見えていたし、それを実現してきた。もちろん、困難がなかったわけじゃないが、どれも、最高の慎重さと機敏な実行力と忍耐強い努力で打ち勝ってきた。 静子が、お茶とケーキを運んで戻ってきたとき、純平は、決心した。 ──やっぱり、言おう。 「坐って、話を聞いてくれないか」 と純平は言った。 「え。どうしたの」 「いいから、坐ってくれ。大切な、と言うか、聞いておいてほしいことがあるんだ」 静子は、お茶とケーキをテーブルの上に出して、席に着いた。 「今まで、僕は、なんでも君と相談しながらやって来た。二人が会ったときからずっと」 言いにくいことを話そうとするとき、純平は、左手であごをさする。 「ええ」 静子は、少し当惑の色を浮かべた。 「だけど、隠してたことがあるんだ」 「そうなの?」 「それを今夜、君に打ち明けたくって」 冷静を装っているが、静子が、戸惑っているのが純平にはわかった。 それで、「君を裏切ったとか、そんなことじゃないんだ」と言った。 静子の顔に安堵の色が浮かんだ。 「だったら、言わなくってもいいわよ。無理をして。それより、このケーキ美味しいのよ。最近評判なの。遠くまで買いに行ったのよ」 いつもなら、静子に促されて、話題を変えていたかもしれない。だが、今日の純平は違った。 「実は、言わないと約束をしていたんだ」 一瞬、静子の顔色が変わったが、純平は気づかなかった。 「それなら、なおさら、言わないほうがいいわよ。約束だもの」 静子は、笑いでごまかそうとした。 「いや。聞いてほしいんだ。聞いてくれないか」 純平は目でも懇願し、静子は黙った。 しばらくの沈黙の後で、純平は紅茶を一口飲んだ。 そして、話し始めた。 「あれは、君と出会う、1週間ほど前のことだった」 僕は、いつものように、星を見ていたんだが、いつの間にか、眠ってしまった。 目が覚めると真夜中になっていた。 まわりの家の灯りがすっかり消えていたのに、とても明るかった。 月が出ていたんだ。今夜のような満月だった。 とても魅力的な月で、僕は、思わず、その方向に、望遠鏡の先を向けた。 焦点を合わせるのに少し手間取った。 何しろ、いつも遠くの星ばかり眺めていたからね。 月を見るなんて久しぶりだった。 ようやく、焦点がはっきりしたとき、僕は、ハッとした。 それは、月じゃなかったんだ。 僕は、接眼レンズから目を離して、肉眼で望遠鏡の先を追った。 月だ。白く輝く月。いつもと変わらない。 そして、もう一度、望遠鏡をのぞいてみた。 すると、やはり、違った。 そこには、緑と青の星が映っていたんだ。 僕は、自分の目を疑い、目をこすってから、もう一度、望遠鏡に目を当てた。 だが、やはり、同じだった。 緑と青の星。 そのとき、頭の中で声がした。 「今見たことを決して人に言ってはいけません」 耳から聞こえた声じゃなかった。辺りはシンとしていた。 僕は、びっくりして、望遠鏡から目を離した。 目の前に、光る人影が立っていた。 わっ! 僕は、縮み上がった。 体中が震えて、声を上げようにも、声も出なかった。顔がひきつり、歯がガクガクと音を立てた。 人影が、僕の方に、手を伸ばしたときも、僕は動けなかった。 「殺される」と叫びたかったが、それもできなかったんだ。 けれど、僕は殺されなかった。それどころか、手が肩に触れた途端、体の震えが止まったんだ。 からだの力が一気に抜けて、僕は両ひざをベランダの床についた。 不思議なことに、力が抜けたと同時に、恐怖心もなくなっていた。 「殺しはしません。ただ、約束してほしいのです」 また、頭の中で声がした。テレパシーのようなものだったんだろう。 「私は、あなたがたの言葉で言うなら、月世界人」 ──月世界人? そう思っただけなのに、相手は、肯いていた。 「あなたが、見たのは、月の本当の姿なのです」 ──月の本当の姿? 「そう」 ──じゃあ。アポロの写真や、いつも望遠鏡で見ている月は・・・。 「あれは、ヴィジュアルコントロールシステムが作り出した幻影」 ──ヴィジュアルコントロール・・・?幻影? 「機械が作り出した幻と言うことです。あなたがたの知っている映画やテレビのような」 幻だって。誰もが見慣れた静かな海や大クレーターが。アームストロング船長やヤング飛行士が降り立ったあの岩に覆われた月面の姿が。あれが、すべて幻だって言うのか。 誰かのいたずらかもしれないと言う気がしたが、その疑惑は、一瞬にしてかき消した。いたずらにしちゃあ、手が込み過ぎてる。 第一、いたずらで、どうやれば、テレパシーなんて使えるんだ。 ──どうして、幻を見せるのですか? と僕は、頭の中で尋ねた。 「どうして?あなたも、大人になればわかるでしょう」 相手が悲しそうな顔をしたのがわかった。 「あなたがた人類は、今でも、宇宙に飛び出すことを、『征服』と呼んでいるのです。そんな人類が、月が地球よりも美しい星だと知ったらどうなりますか」 僕は、言葉に詰まった。子供ながらに、何となく、相手の言っていることがわかるような気がしたんだ。 ──だけど。 「ええ。もちろん。人類も、悪い人ばかりじゃありません。だから、私たちは、時を待っているのです」 ──時? 「そう。時。人と言いかえてもいいでしょう。二つの世界の懸け橋になれる人。そういう人が現れるのをずっと待っているのです。ガリレイが望遠鏡を発明するより何万年も前から、我々は、ヴィジュアルコントロールシステムを作ってカムフラージュをしながら、人類を観察してきました。そのヴィジュアルコントロールシステムが、たまたま、さっき、エラーを起こしたのです。こんなことは、ここ数百年なかったのだけど。幸い、システムはすぐに回復しました。でも、あなたに見つかってしまった。あの時間、世界中で、──と言っても地球の半分は関係ないのだけど──月を見ていたのは、あなただけでした」 ──僕、だけ 「そうです。あなただけです。それで、さっそくあなたのもとに、私がつかわされたと言うわけです」 月世界人は、僕をじっと見つめた。 僕は、どうすればいいのかわからずに、相手の次の言葉を待った。 「あなたは、正直な子供のようですね」 そこまで話し終えて、純平は目を開き、紅茶に手を伸ばそうとして、ハッと、手を止めた。 静子が泣いていた。立ち上がり、純平を見つめたままで。 涙目の静子と目があった。悲しい目だった。 「どうしたんだ」 純平は、驚いて尋ねた。 「そう。あなたは、正直な子供だと思ったの」 静子は言った。 「おい。何を言ってるんだ」 純平は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。 静子は突然輝きだし、まぶしい光に包まれた。 ──あーっ! 「そうです。私は、あのときの月世界人」 静子の声が、頭の中で聞こえた。 「あなたは、私に約束しましたね。誰にも言わないと。私は、あなたを信じようと思ったのです。でも、あなたは言ってしまった。これでお仕舞いです。私は、月に帰らなければなりません」 ──そんなぁー。 「あなたは私との約束を守って、ずっと誰にも言わなかった。だから、私も、あなたを助けてきた」 静子の目から、また一筋涙が流れ、涙は、金色に輝いた。 「あなたはよくがんばったわ。夢の通りに歩いて、計画を次々にこなしていった。この人なら、もしかしたら、地球と月の懸け橋になれるかもしれない。私は、そう思っていました」 ──僕は、・・・。 「どうして、約束を破ったの。どうして、言ってしまったの」 静子は、泣き崩れた。 純平は、静子の側によろうとしたが、立つことができなかった。 目から涙が溢れた。 ──君がいてくれたから、僕は、がんばれたんだ。 静子は、少しほほ笑んだように見えた。 「あなたに会えて、私、幸せでした。でも、あなたは、約束を破った。お別れです」 ──どうして? 純平は、すがるような眼差しを静子に向けた。 「それが、約束なのです」 静子は立ち上がった。 純平は、目の前が真っ暗になった。 ──僕が悪かった。もう、誰にも言わない。許してくれ。 静子は、下唇を噛み締め、涙を流しながら、首を横に振った。 「もう。遅いのです。あなたは、約束を破った」 ──誰も見ていない。 静子は顔を横に向けた。純平もつられて同じ方を見た。 ベランダのサッシから満月が二人をのぞき込んでいた。 「いいえ。私と月が知っています」 きっぱりとした口調だった。 ──嘘だろ。嘘だと言ってくれ。 純平は、心の中で祈った。 静子は、静かに目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。 言いようのない敗北感と挫折感が、純平をおおった。 再び見開かれたとき、静子の目に涙は消えていた。深い悲しみに満ちた目は、純平を哀れんでいるようにも見えた。 静子を被っていた光がひときわ明るさを増していくのを、純平は、まぶしさをこらえてじっと見つめた。 「お別れです。さようなら」 ──嫌だ。行かないで。 ──嫌だ。行かないで。 純平は、哀願した。 が、静子はもう応えなかった。光はだんだんと強さを増して、静子の輪郭を消し去り、やがて明るさが頂点に達したかと思うと、すーっと、月に吸い込まれるようにして消えた。 「・・・かないで!」 純平は、目を覚ました。 ──夢か。 と思ったが、どこまでが夢でどこまでが現実なのか、すぐにはわからなかった。 なにげに窓を見て、純平は、あっと声を上げそうになった。 そこには、自分の姿が映っていた。 32歳の純平ではなく、12歳の純平。 あわてて、側にあった望遠鏡をのぞき込んだ。 焦点は、月に合っていて、おなじみの砂色の星が映っていた。 明くる日の選挙。純平は、それまでの選挙と変わらず、何の役にも選ばれなかった。 一週間後、静子は、転校してこず、二週間たっても、三週間たっても、相変わらず、純平は、クラスで一番目立たない存在だった。 一年に一度や二度、勇気を持とうと思ったことはあったが、その思いは遂に現実に移されることはなかった。 運命の女神はことごとく純平を無視し続け、彼は目立たない人生を送った。 そして、32歳になった今でも、純平は思う。 ──どうして、僕は、約束を破ってしまったのだろう。 明日、国産第一号のシャトルが打ち上げられると、テレビのニュースが言っていた。 映し出された白い機体を見ながら、純平は、訓練を受けたコックピットを思い出した。 ──明日打ち上げられるんだ。 純平は、もちろん、搭乗しない。 彼は、にやっと笑った。 今宵、飛行士たちの家で起きるかもしれない物語を思って。 (終) |
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