『幸せな顔』というテーマの写真コンクールがあるなら、この日の美咲の顔写真を撮って送れば、入選したかもしれない。 写真の現像所を出て、二、三歩歩き出してからの美咲は、まさに、幸せそのものの顔をしていた。 と言って、美咲は、別に、コンクールに出すための自画像の写真を撮りに行ったわけではない。 だが、カバンの中には、大切にしまわれた一枚の写真があった。 家に帰ってくると、美咲は、部屋に入り、 「ただいま。吾郎。」 と言って、吾郎にキスをした。 いつもの習慣だ。 そして、急いで制服を脱ぎ始める。 シャワーを浴び、普段着に着替えるためだ。 その一部始終を、ベッドの上に寝転がりながら、吾郎は、つまらなそうに眺めていた。 シャツを脱ぎ、ブラジャーを取ると、胸があらわになった。 美咲は、自分の胸を鏡に映して見る。 そして、ため息をついた。 「ねえ。ちょっとは大きくなったかなぁ。」 美咲は、吾郎に話しかけた。 小さい胸は、彼女の一番のコンプレックスだった。 だが、吾郎は、知らん顔である。 美咲は、そのまま素っ裸になると、バスタオルを体に巻いて、ドアのノブに手をやった。 「ねえ。一緒にはいろうか?吾郎。」 そう言って、笑うと部屋を出た。 吾郎は、ベッドの上で、大きく欠伸をして、それから、伸びをした。 シャワーを浴びた美咲は、先ほどのように、バスタオルを巻いた格好で部屋に戻る。 そして、ベッドの端に腰を下ろし、寝そべる吾郎にキスをした。 これも、ほとんど、日課に近い。 吾郎は、大抵、嫌がりはしなかった。 彼女は、彼のお気に入りなのだ。 「キャーッ。吾郎。くすぐったいよ。」 美咲は黄色い声を上げた。 吾郎が、彼女の耳たぶを舐めたのだ。 美咲は、吾郎を抱き上げた。 「吾郎が、長靴を履いてたら良かったのにね。」 美咲は、その台詞をよく言う。 「でも、あんたは、長靴の中で泣いてたんだよ。」 吾郎は、その言葉がわかるかのように、 「ミャーン」 と声を出した。 吾郎は、美咲の愛猫である。 二年前、空き地に捨てられていた長靴の中で見つけた。 子猫を連れて帰ると、母親の凪子は、飼うことに大反対した。 「駄目よ。そんな。生き物は、駄目。死んじゃうとかわいそうだし。あなた、面倒見切れないでしょう?」 「ちゃんと面倒見るからぁ。」 こういうとき、美咲は、鼻にかけた声を出す。 おねだりの癖が抜けていないのだ。 「嘘おっしゃい。金魚だって、すぐに、面倒見なくなって、死なせちゃう癖に。」 凪子の言うのにも一理ある。 子どもの頃、夜店で買ってもらった金魚の命は、ほとんど、一月と持たなかった。 家の庭には、今でもたくさんの金魚の骨が埋まっているはずだ。 金魚が死ぬ度に、美咲は、墓を作って埋めた。 「だって。このまま、放っておいたら、死んじゃうんだよ。こんなに小さいのに。」 子猫は、掌のうえに乗る大きさだった。 まだ、生まれて一月とたっていないように見える。 「駄目です。黒猫なんて。それに、この猫、ちょっと変なんじゃない?しっぽが曲がってる。」 黒い毛の生えたジャガイモのような子猫のしっぽは、確かに、おかしかった。 豚のしっぽのように、くるっと曲がっているのだ。 「ひっどーい。お母さんの差別主義ッ。お母さんみたいな人が、きっと、黒人や身体の不自由な人を差別するのよ。」 美咲は言った。口では負けない美咲である。 その点、凪子は、どちらかと言えば、口論が嫌いな方だ。 「まあ。何てことを言う子かしら。でも、今はこれまで。お父さんの意見を聞いてからにしましょう。」 あっさりと、お鉢を、夫に委ねた。 その言葉を聞いて、美咲は、心の中で、ニヤリとした。 凪子の夫君、すなわち美咲の父である沢口慎一こそ、不幸である。 会社で疲れ、ようやく帰宅したというのに、帰ってくるなり、難題を持ちかけられた。 「ねえ。いいでしょう。お父さん。」 美咲は甘えた声を出した。いわゆる猫なで声というやつである。 甘えの壺は心得ているのだ。 いつもなら、きまって、美咲の敵に回る姉の翔子は、中立を守った。 彼女も、猫は嫌いではない。 その上、美咲の買収が功を奏した。 「ケーキ、3個。ね、お姉ちゃん。」 頼み込む美咲。 「駄目。5個。」 と、翔子。 「お願い。3個。」 「じゃあ、諦めなさい。」 翔子は、微笑んだ。妹がどう反応するかを知っているのだ。 「わかったわよ。4個で手を打ちましょう。」 案の定、美咲は、最初の妥協をした。 「ダーメッ。5個。」 「ケーキ5個も食べたら太るよ。お姉ちゃん。」 何とか、姉を説得しようと試みる。 だが、翔子は強気である。 「じゃあ。いらない。その代わり、この話はなしね。」 翔子は、その場を立ち去るそぶりを見せた。 「わかったわよ。5個でいいわよ。その代わり、味方になってね。」 「OK!反対はしないわ。」 こうして、姉妹は握手を交わしていた。 そして、最後に残された砦が、慎一になったというわけである。 だが、この砦、さほど、強くはない。 何しろ、慎一は、美咲に甘いのだ。 「ねえ。お父さんてばぁ。」 美咲は、また、甘えた声を出した。 「駄目ですよ。あなた。この子に、面倒なんて見れっこないんだから。」 凪子が夫の影から応戦する。 「面倒見るからぁ。」 「嘘ばっかり。」 「本当だってばぁ。」 「駄目ですっ。」 凪子は言い切った。 「お母さんに言ってないもん。お父さんに言ってるんだもん。」 美咲は、慎一の顔をのぞき込む。 「ねえ。お父さん。お願い。ちゃんと世話するからぁ。」 「駄目ですよ。あなた。騙されちゃ。」 妻と娘、二人の女に見つめられ、苦悩する慎一である。 しばらく考え込み、彼が、出した結論はこうだ。 「よし。じゃあ、こうしよう。しばらく、様子を見よう。」 彼は、恐る恐ると言うように、二人の女の顔を交互に見た。 「私は反対なのよ!様子を見るって、どうするんですか、あなた?」 凪子の口調が厳しい。 「一週間。いや、二週間様子を見よう。それで、世話ができれば、飼ってもいい。できなければ、誰か、もらってくれる人にもらってもらう。それでどうだ?」 慎一としては、両者に花を持たせる結論になったはずだった。 だが、二人の反応は大いに違った。 「やったぁ。やっぱり、お父さん。大好き。」 美咲は、そう言って、父の背中に抱きついた。 慎一の顔に、幸福感が浮かぶ。 だが、その幸福は、一瞬のうちに、かき消された。 「もうっ。美咲に甘いんだからっ。どうなっても、私は面倒見ませんからね。」 凪子は、そう言い放つと、立ち上がって、居間を出た。 慎一があわてて後を追う。 「ねえ。母さん。そんなにおこらなくても。ねっ。ちゃんと、期限を切ったんだからさあ。」 廊下で、父が、母をなだめている声が聞こえた。 「良かったねえ。お前、今日からうちの子だよ。」 美咲は、何食わぬ顔で、うれしそうに、子猫の頭をなでた。 その晩、沢口家の夕食は、父の提案で、店屋物の出前を取った。 美咲、中学二年の秋のことだった。 それから、二年の歳月が流れた。 吾郎と名付けられた子猫は、瞬く間に大きく成長し、最初大きめのジャガイモ程度だった体重も、今ではスイカよりずっと重い。 名前をつけたのは、もちろん、美咲だ。 スマップの稲垣吾郎の名前にあやかった。 ファンだったのだ。 初めて、名前を聞いたときの家族の反応。 父、慎一。「我関せず。」 母、凪子。「変な名前!」 姉の翔子だけが、由来を聞いてくれた。 「どうして、吾郎なの?」 「だって、スマップの吾郎ちゃんに似てるじゃん、この子。」 美咲は得意気に言った。 「うそぉ。全然似てないよぉ。」 翔子は笑った。 「似てるもん。」 「似てないよ。だって、稲垣、って、どう見ても、犬顔じゃん。」 「似てるもん。」 結局、姉の反応も、冷たかったのである。 だが、美咲が、父母との約束を守り、世話を怠らなかったことは、それまでの彼女の実績からしてみれば、結構な称賛に値する。 美咲自身、ときどき、自分をほめてやりたい、と思ったくらいだった。 彼女の自画自賛は大げさだったにしても、それ相応の手間と金はかかった。 食事と水の世話に始まり、トイレの掃除。爪とぎの始末。ときどきのシャンプー。 ただでさえ満足とは言えない小遣いのかなりの部分が、餌代とトイレの砂代、その他もろもろの出費に消えた。 「ねえ。吾郎。この人、格好いいでしょう。」 美咲は、先ほど現像所から持ち帰ってきた新しい写真を入れた真新しいフレームを大事そうに両手で持って吾郎に見せた。 吾郎は、ちらっと見ただけで、プイッと顔を背けた。 フレームは、学校帰りに買ったものだった。 吾郎が、顔を背けたのも無理はない。 写真は、すごくピントがぼけていた。 だが、それはある意味では仕方のないことだった。 小さな写真を引き伸ばして貰ったのである。 同時プリントで上がってきたとき、最初の写真に写っていたその人物は、片隅に、小さく張りついていた。 使い捨てカメラで、遠くから撮った写真だ。 引き伸ばしを依頼したとき、店員のお兄さんが、 「本当にこの写真を引き伸ばすんですか?」 と確認したほどだ。 「ええ。お願いします。」 と言ったとき、美咲は、恥ずかしさで、消えてしまいたかった。 店員のお兄さんは、なおも、 「これ、大きくしたら、ぼけますよ。」 と言った。恐らくは、親切心から。 「でも、お願いします。」 と言い切って、名前と電話番号を告げると、あわただしく、店を後にした。 今日、写真をもらいに行ったとき、先日の店員ではなく、別の店員がいて、美咲は、ホッと、胸をなで下ろした。 「これですね。」 と言い、確認のために中を見せた女性の店員は、無表情だった。 「はい。これです。どうもありがとう。」 急いで、写真の入った袋をカバンに入れ、店を出た。 そうまでしても、現像したい写真だったのだ。 何しろ、命懸けで撮った。 そう。美咲にとってはまさに命懸けの撮影だった。 彼の名前は知らない。 毎朝、高校に通うために美咲が乗る地下鉄には、出勤のサラリーマンの他、美咲と同じ女子高の生徒と、いくつかの男女共学の高校と中学校の生徒が乗ってくる。 まさに、通勤・通学電車なのだ。 苦労した揚げ句に、制服の校章を見て、S高の生徒だというのはわかった。 が、そこまでだ。 友だちの中には、S高の生徒と知り合いの子や、中学の時の友だちで、共学のS高に通っているという女子もいる。 けれど、誰にも相談できなかった。 恥ずかし過ぎる。 恥ずかしいことは、とにかく、苦手なのだ。 彼は、毎朝、一つ先の駅から乗ってくる。 いつも同じ車両だった。 大体、通勤・通学の地下鉄では、自分の乗る車両が決まっているものだ。 だが、初めて、彼を見た日。美咲は、駆け込み乗車だった。 いつもならそんなことはないのだが、たまたま、出掛けに、吾郎が、足にしがみつき、爪を引っかけてストッキングに穴を開けてしまった。 それも、ちょっとやそっとの穴ではない。 大きく裂けた。 仕方なく、履き替えていて、地下鉄に遅れそうになったのだ。 もう。吾郎の奴ぅ。帰ったら、お仕置きだからね。 などと思いながら、勢い切って地下鉄に駆け込んだ。 間一髪セーフ。 肩で息をした。 いつもとは違う車両だが仕方がない。 その息も収まる頃、地下鉄は次の駅に到着する。 ドアが開き、乗客が流れ込んできた。 その中に、彼がいた。 一目惚れだった。 理由はわからない。だが、大方、一目惚れなどというのはそういうものだ。 その日の帰り道、コンビニによって、可愛いキャラクターの入ったノートを買った。 いつもそうだ。 何かが始まると、日記を付けたくなる。 元旦、入学、学期の初め。そして、片思いの始まり。 そうやって始める日記は、長続きしたためしがない。 今回もそうだった。 最初のページには、彼がどんなに格好いいかを長々と書いた。 身長は、一八〇㎝くらい。ガッチリとした体格。たくましい腕。長めのスポーツ刈りが似合う日焼けした精悍な顔。……。 次の日には、自分の思いを綴った。 好き。好き。好き。大好き。大好き。大大大好き。……。 三日目は、彼のために作った詩。 乙女の詩というやつ。自分では傑作だと思った。 けれども、四日目以降は、書かれることはなかった。 だが、恋が終わったというわけではない。 思いは、日を追って募った。 そして、一週間前、とうとう、写真まで撮った。命懸けで。 只でさえ、内弁慶の恥ずかしがり屋だ。 写真を撮らせてくださいなどとは、口が裂けても言えない。 恐らく、口が裂ける前に、顔から火を噴いて、倒れるに違いなかった。そのままご臨終である。 第一、そんなことが言えるくらいなら、知り合って三カ月も、名前も知らずに過ごすはずはない。 何も言わずに、近くからカメラを向けるのも同じだ。 とにかく、彼には、知られてはいけないのだ。 美咲は、何度も、頭の中で、シミュレーションしてみた。 彼が乗ってくるときがいいか? いや、それは駄目だ。見つかる可能性は高いし、見つかってしまった場合、彼の横を通り抜けて、地下鉄を降りる勇気はない。 それでは、地下鉄が動き出してからか? それも、駄目だ。彼は、いつも窓の方を向いて立つ。それでも、彼の顔が見えるのは、地下鉄だからだ。外が暗いために、窓ガラスに、顔が写る。ときどき振り返った拍子に、目が合うが、そんなとき、美咲はいつもうつむいてしまうのだ。これでは写真は撮れない。 それなら、自分の降りるときか? 振り返って、撮るチャンスはある。だが、動きが不自然になってしまい、彼も含めて、多くの人に気づかれてしまう。その中の多くは、同じ高校の生徒だ。これはまずい。 思い悩んだ末に、美咲が出した答えは、上の三つのどれでもなかった。 自分は、駅にいて、そこから彼を撮るのだ。 自分が、何食わぬ顔で、ホームにいて、一瞬シャッターを切るだけならうまく彼に気づかれずに撮れるかもしれない。 しかも、自分がいつも降りる、つまり、同じ女子高の生徒がいつも降りる駅ではなく、一つ先の駅で。 地下鉄の車内は、ホームよりも明るい、中をとるならフラッシュを焚かなくても、写るはずだ。 これなら、同じ高校の生徒に見られる確率もぐんと減る。 ようやく出た結論だったが、計画を実行に移すまでに、一月以上かかった。 テストの時期と重なったのも良くなかった。 一度、今日こそは、と思い、いつも乗る地下鉄の一本前のに乗った。 いつも降りる駅を飛ばして次の駅で降り、次の地下鉄の到着を待つ。 地下鉄は、やって来た。 だが、彼の姿はどこにも見えなかった。 彼だけではない。S高の制服姿がいつもよりずっと少ない。 「しまった。試験なんだ。」 地下鉄は、そんな美咲の思惑などまったく無視で出発した。 呆然と地下鉄の後ろ姿を見送る美咲。 幸い、反対行きの地下鉄は、すぐに到着して、遅刻は免れた。 けれども、次の日も、いつもの地下鉄に彼の姿はなかった。 試験期間で、始業が遅いのだ。 「吾郎。人生うまくいかないよ。」 吾郎に、そう言って、美咲は、ため息をついた。 次の週は、美咲の高校の方が、試験期間に入った。 いくらなんでも、試験期間に、そんなことはできない。 ただでさえ、赤点ぎりぎりの美咲である。 だが、一旦、途切れた決心は、もう一度立て直すのに、手間がかかる。 美咲の場合、それは、十日かかった。 そして、ついに、先週、決行したのだ。 一本前の地下鉄に乗って、学校の次の駅で降りた美咲は、今や遅しと、彼の乗ってくる次の地下鉄を待ちわびた。 果たして、次の地下鉄のいつもの車両に、彼の姿はあった。 でも、駄目だ。彼が、まともにこっちを見ている。 今、カメラを構えシャッターを押すのはまずいと思った。 けれども、諦めては、今までの苦労が、水の泡じゃないか? 心臓の鼓動が高鳴る。頭に血が上って、顔が火照った。 彼がこっちを見ている。 まずい。 あ。でも、地下鉄が出ちゃう。 動悸はますます激しくなり、息が苦しくなった。 恥ずかしさで気が遠くなる。 発車のベルが鳴り、地下鉄が動き始めたとき、とうとう、美咲は、目をつぶって、シャッターを切った。 何でもない写真が、美咲には、命懸けだったというわけである。 その上、地下鉄の動きと、手ぶれで、ピントもずれた。 だが、美咲は満足だった。 ようやくにして、あこがれの君をフィルムに収めることができたのだ。 「ただいま。吾郎。今日撮って、現像に出したんだよ。」 美咲は、帰宅するなり、吾郎に言った。 吾郎は、眠たい目で、 「ミャー」 と言った。 吾郎は、芸をしない。 猫一般に、大体がそうなのだが、吾郎の場合は、特にそうらしく、ボールを追うことや、ネズミのおもちゃで遊ぶことも嫌いなようだ。 吾郎に、特技があるとすれば、まず第一は、一緒に散歩ができる猫と言うことだ。 いつも、家の中ばかりでは退屈だろうと、一度、外に出してみて、そのことに気付いた。 吾郎は、美咲の数歩後を小走りに歩きながら、着いてきた。 決して、道をそれたり、木や塀に上ったりはしない。 帰宅すると、足の裏を拭いてやる。 吾郎は、そのときも、おとなしくした。 母や姉は、美咲が先に歩かなければ歩かないのも、そばを離れないのも、単に、憶病なだけだと笑ったが、美咲は、そうは思わなかった。 「お前は、頭がいいんだよね。」 そう言って、吾郎の頭をなでてやった。 それ以外の特技は、自転車の籠に乗ること。 美咲は、特技だと言い張ったが、凪子と翔子は、認めようとしなかった。 「きっと、怖くて、目をつぶったまま、籠にしがみついてるのよ。」 二人は、それも、憶病のせいにした。 「違うよね。ちゃんと、景色見てるよね。吾郎。」 美咲は、二人に見せびらかすように、吾郎を自転車のかごに乗せて出かけた。 吾郎は、確かに、しっかりと籠につかまってはいるが、頭は、籠のうえに出している。 運転している美咲から確認はできないが、きっと、目を開けて、景色を見ているのだと美咲は信じていた。 自転車と言えば、美咲は、最近、よく、隣の駅まで自転車を走らせた。 吾郎を乗せているときもあったし、そうでないときもあった。 駅の周辺は、閑静な高級住宅街が広がっていて、車の通りは少ない。 自転車で走るには、ちょうど良かった。 もちろん、目的は、高級住宅街の見学などではない。 何となく、駅の側を走っていると、彼に会えそうな気がしたのだ。 それはそうである。 彼は、その駅を利用しているのだ。 だが、彼を待つ勇気はなかった。 たまたま会う、いや、見かけるのはいい。すれ違うのも、まあ、いいとしよう。 けれども、待つとなれば別だ。 必ず、彼に会ってしまう。 どちらにしても同じに思えるようなものだが、美咲には違うらしい。 とにかく、前者は良くって、後者は良くないのだ。 実際、すれ違ったことがあった。 吾郎を連れていたときだ。 「ねえ。吾郎。この辺りは、大きい家が多いでしょう。いっぱい大金持ちが住んでるの。彼ももしかしたら、大金持ちのお坊ちゃんかも知れないね。そうしたら、玉の輿だね。」 美咲は、籠の中の吾郎に話しかける。 吾郎は、何も答えない。 それでも、美咲はお構いなしで、 「彼、白馬の王子様なんだよ、きっと。」 などと、わけのわからないことを連発している。 そのときだった、駅から歩いてくる彼を見つけた。 駅の方に向かう美咲が同じ道を逆方向から来たのだ。 もちろん、何事も起こりはしなかった。 彼は、前を見て歩いてきたが、美咲が近づくと、ふいにうつむいたように見えた。 美咲も、じっと彼を見ている勇気などない。 彼が、顔を上げでもしたら、自分の全身がパニックになるのは目に見えているのだ。 そして、ただ、すれ違っただけ。 一瞬の出来事だった。 だが、美咲の動悸は、グッと激しくなり、すれ違った後しばらくも、顔が熱く火照っているのが恥ずかしいほどよくわかった。 すぐの角を曲がって、後ろを確かめると、籠から吾郎を抱き上げ、 「ねえ、見た、吾郎?格好いいでしょう、彼?」 と言って、頬擦りをした。凪子と翔子の言う通りならば、おそらく目をつぶっていただろう吾郎に向かって。 吾郎には、二つのほか、人に言える取り柄がない。 美咲は、他にも、自分の指を舐めるときの仕種が可愛いことや、ティッシュペーパーを箱から取り出してばらまくことなども特技に加えたいのだが、恐らく、それは、特技ではないだろうと、心のどこかで知っていた。 それに引き換え、吾郎のいたずらには、定評がある。 とにかく何でも、壊したいのだ。 「この子、頭がいいから、いろんなものに、興味があるのよ。」 美咲は、そう主張したが、家族の受け入れられるところではない。 翔子は、カシミアのセーターに穴を開けられて泣いた。 「どうしてくれるのよ、美咲!」 結局、美咲が新しいのを買って返すことになった。 台所に侵入した吾郎は、大皿二枚を含め、一度に、十枚以上の皿をテーブルクロスごとテーブルから落として割った。 「だから、言わないことじゃない!」 凪子は、ここぞとばかりに、声を荒げ、美咲は、こっぴどく叱られた。 慎一の趣味は、模型作りである。 吾郎は、それも、壊した。 しかも、完成間近というやつをである。 模型を作る人間には、二種類のタイプがある。一方は、完成したものを飾ることを喜びとするタイプ。もう一方は、作る過程を楽しむタイプ。 慎一は、後者に属した。 それだけに、出来掛けを壊されることは、作り終った後の完成品を壊されるより、ショックが大きい。 美咲には、なかなか、怒れない慎一ではあったが、このときばかりは、 「これからは、美咲が学校に行っている間は、猫は、美咲の部屋から出ないようにしなさい。」 と言い渡した。 美咲の部屋が、女の子の部屋にしては、やけにシンプルなのはそのせいだ。 吾郎が壊しそうなものや、壊れて困るようなものは、みんな押し入れやタンスの中にしまってあった。 そんな注意を払っていた美咲だったが、事件は起こった。 部屋に入ると、彼の写真の入ったフレームが壊れていた。 ガラスが割れていたのだ。 「もう。吾郎!!」 美咲の怒りが爆発した。 「吾郎の馬鹿!!」 近くにあったクッションを放り投げる。 吾郎は、クッションに当たったが、 「ミャーン」 と言って、近づいてくる。 その顔を美咲は、平手で叩いた。 吾郎は、 「ミャーッ!」 と声を上げ、部屋を飛び出した。 廊下に出て、階段を駆け降りていく音がした。 そこに、運悪く、凪子が買い物から帰ってきた。 ドアを開けた途端、足元を吾郎が走るのを見て、 「ヒャーッ!」 と声を出す。 吾郎は、そのまま、外に消えた。 「美咲!大変よ。吾郎が、逃げ出した!」 凪子は、買い物袋を抱えたままで階段を上がって、美咲の部屋に入った。 「美咲。ごめんね。お母さん。謝らないと。」 美咲は、?という顔で母を見た。悲しそうな目をして、手には、フレームを持っている。 「それのことなの。」 凪子は、フレームを指さした。 美咲の顔色が変わる。 「母さん、さっき、お布団を取り入れて入ったときに、引っかけて、落として壊しちゃったのよ。」 「えっ?吾郎じゃなかったの?」 「うん。それでね。今、お買い物に行って、新しいの買ってきたから、許して。」 落ちたフレームは、机の上に置き、小さいガラスの破片は、掃除機で処理してから出かけた。 そして、同じ形の新しいフレームを買ってきたのである。 凪子にしてみれば、これで一件落着のはずだった。 だが、母が、すべてを語り終える前に、美咲は部屋を飛び出していた。 階段を駆け降り、玄関に出てドアを開ける。 けれども、いつもなら、そう遠くには行かない吾郎の姿は見あたらなかった。 「吾郎。吾郎。」 と呼んでみたが、返事はない。 つっかけを履いて、探しに出た。 「吾郎。吾郎。」 と言いながら、近所を歩き回る。 けれども、吾郎は、どこにもいない。 一旦引き上げて来ると、玄関の脇に、心配そうに突っ立っている母がいた。 「どうだった?」 「いなかった。」 美咲は言った。 「お母さんのせいだよぉ。」 「どうして?」 と問う凪子に、わけを話して聞かせた。 「そうだったの。ごめんね。美咲。でも、割れたフレームを捨てるわけにもいかなかったのよ。」 凪子は言った。 言われてみればその通りでもある。 美咲がよく確認すれば、割れたガラスの破片がないことや、落ちて壊れたはずのフレームが机の上にあったことで、吾郎のせいじゃないとわかったはずだ。 不注意で壊れてしまったものは仕方がない。 それに対して、凪子は、後始末を付け、新しいものまで買いにいってくれたのだ。 「もう。いいよ。それより、吾郎を探さないと。」 美咲は言った。 「私も一緒に探すね。」 そう言って、凪子も、外に出た。 二人で手分けして、町内中を探して回ったが、駄目だった。 そうこうしているうちに、短大を終えて、翔子が帰ってきた。 美咲と凪子が玄関先で、次は、範囲を少し広げて探そうかと相談していたときだった。 二人の話を聞くと、翔子は、母子を一旦居間に戻し、十分ほど、そこで待つように言った。 自分の部屋に入った翔子が居間に戻ってきたとき、彼女は、一枚の紙を持っていた。 「探し猫」、と一番上に大きく書かれたポスター。「この猫を探しています」、と言う字の下にスキャナーで取り込んだ吾郎の写真が添えられ、「名前は吾郎。しっぽが曲がっている二才くらいの小太りの黒猫」、と言う特徴を書いた文章、その下には、「沢口美咲」と美咲の名前が書いてあり、住所と電話番号が添えられていた。 得意のパソコンで仕上げたのである。 「探しながら、これをコピーして、電信柱とかに張るのよ。知り合いのお店とかにも頼んで張らせてもらいましょう。」 翔子は言った。 「ありがとう、お姉ちゃん。」 美咲は言った。 「持つべきものは姉でしょう?」 翔子は、突っ込みを期待して、冗談ぽくいったつもりである。 「うん。」 と素直に肯かれて、かえって戸惑った。 三人は、手分けをして、あちこちを探しながら、コピーしたポスターを電信柱に張ったり、知り合いの店に頼んで張らせてもらったりした。 十分隈無く探したのだが、その日、ついに、吾郎は見つからず、慎一が帰ってくる頃になって、捜索は、一旦打ち切られた。 翌日、美咲は、地下鉄で彼の姿を見ても、いつものように、素直には喜べなかった。 学校から帰ってくると、急いで部屋に戻った。 吾郎が、ひょっこりと帰っているような気がしたのだ。 だが、吾郎は、部屋にはいなかった。 吾郎のいない部屋は、寂しかった。 「吾郎。ごめんね。」 一番信頼している主人に濡れ衣を掛けられて叱られた吾郎の悲しみを思うと、涙が出た。 「ごめんね。吾郎。」 美咲は、昨日行かなかった場所まで、広げて探してみることにして、自転車で家を出た。 だが、やはり、無駄だった。 吾郎は見つからず、日は暮れた。 翌日は、土曜日で、学校は休みだった。 だが、美咲は、いつもより、早く起きた。 もう一度、近くも遠くも、探して回るつもりだった。 凪子も、カルチャーセンターのダンス教室が終わり次第手伝うと言ってくれた。 「そんな顔しなさんな。きっと見つかるよ。」 朝食を採りながら、翔子が言った。 「ちゃんと、駅の伝言板にも、張らせてもらってきてやったんだからね。」 翔子の言葉を聞いて、少しだけ、美咲の顔に、笑みが浮かんだ。 「そうだね。お姉ちゃん。ありがとう。」 「大丈夫だよ。」 と、もう一度言って、翔子は、アルバイトに出かけた。 少しして、美咲と凪子も出発した。 美咲は、一度、自転車で出かけたものの、すぐに引き返した。 近くを探すには、自転車より歩いて探した方がいい。 自転車を置いて、すぐに出かけるつもりだった。 だが、玄関脇に自転車を止めているときに、電話が、鳴るのが聞こえた。 もしかしたら? そう思って、急いでカギを開け、玄関を入る。 五度鳴り終わる前に、受話器を取れた。 「もしもし、沢口です。」 「あ、あのう。猫を拾ったんですけど。」 やっぱりそうだ。 親切な人が、悟郎を見つけて電話をしてきてくれたんだ。 驚きとうれしさで、目まいがするほどだった。 「はい。」 としか言えなかった。 「これから、お届けに上がろうかと。」 「こちらから、取りにうかがいますけど。」 「いえ。もう、すぐ近くまできているので。」 「えっ?じゃあ。お待ちしてます。」 「すぐにうかがいます。」 美咲は、やきもきしながら、相手の、いや、吾郎の到着を待った。 だが、はたと気付いた。 玄関先に出ていた方がいいんじゃないかしら? そう思って立ち上がろうとしたときだった。 ピンポーン。 と、玄関のチャイムが鳴った。 あわてて立ち上がる。 同時に玄関ドアが開く音がした。 「ごめんください。」 の声。 走って、玄関に出た。 美咲は、 「あっ!」 と声を上げずにはいられなかった。 そこには、彼が立っていたのだ。 あこがれの君は、その手にしっかりと吾郎を抱きかかえていた。 彼の手に抱かれながら、吾郎は、美咲を見て、 「ミャーオ」 と声を上げた。 突っ立ったまま、自分を見つめる美咲に、彼が、口を開いた。 「君。毎朝。地下鉄で会うよね。」 その声に、反応し、呪縛が少し緩んだが、 「はい。」 と言った美咲の声は、しり上がりのおかしな発音になった。 途端に、動悸が激しくなり、顔が熱くなるのを感じた。 「君の猫だったんだ。」 「はい。」 また、同じ調子である。いや、かえって酷くなったかも。 「一昨日、駅前を、ここからだと、一つ向こうになるんだけど、歩いていたら、こいつが、後ろから付けてきて離れないんだよ。何度も、追っ払おうとか、まいてしまおうとかしたんだけど、……。」 彼は、少し困ったような顔を見せた。 「それで、やむなく、一晩泊めたってわけ。そして、昨日、駅で、ポスターを見たんだ。黒猫で、しっぽが曲がっているってだけで、すぐにこいつだとわかった。でも、昨日は、見たのがもう遅かったからね。さっき、電話した。」 「あ、ありがとうございました。」 やっと普通の発音で言えたが、まだ、動悸は収まらない。頬も、かっかするほど、火照った。 彼は、吾郎を玄関の床に降ろした。 「あ、あのーっ。」 彼が言う。 「はい?」 また、声が高くなる。 「いえ。……、君、沢口美咲さんっていうの?いや。その。ポスターにそう書いてあったから。」 やさしい声だった。 その声は、美咲の心を鎮めるように響いた。 「はい。」 普通に言えた。 「あ、あのーっ。」 「はい。」 しばらく間が空く。 「いえ。それじゃあ、ぼくは、これで。」 彼が、玄関のドアに手をかけたとき、 「ミャーミャ」 と、吾郎が一声鳴いた。 いつになく、おかしな声に、緊張がほぐれ、美咲の顔に、笑みがこぼれた。 彼も、微笑んでいた。 「あの。お名前を。」 素直に言えた。 「田中悟郎です。」 「え?」 美咲は、聞き返した。聞こえなかったわけではない。 「田中悟郎です。」 だが、聞き取れなかったのだと思ったらしく、悟郎は、大きな声で言った。 ゴロウ! 美咲は、うれしくって仕方がなかった。自分の思ったことを今すぐに言いたいと思った。 すると、言葉は、出た。 「この猫も、吾郎なの。」 「そうだよね。ポスターを見て、驚いたよ。」 友だち同士の会話のように普通に話せた。 「ゴロウ同士で、着いてきたのかな?な、吾郎?」 悟郎は、吾郎に話しかけ、微笑んだ。 が、次の瞬間には、彼は、口元を引き締めていた。 そして、美咲を見つめ、はっきりとした口調で言った。 「ぼくと、つき合ってもらえませんか?」 それは、田中悟郎が、二カ月半ほどの間、思い悩んでいた台詞だった。 事件は、沢口家の家族の和を、今まで以上に強固なものにした。たとえ、そのすべてに、慎一が、関与していなかったとしても。 そして、凪子と吾郎を和解させた。 以来、凪子は、何かと吾郎の世話を焼きたがった。 その日から、美咲と悟郎の二人がつき合い始めたのは、言うまでもない。 もし、人の心の中がどうにかして読めるなら、世の中を、これほど、スムーズにすることはないだろう。 もちろん、例外は多いのだが、美咲と悟郎の場合には、まさにそれが言えた。 地下鉄で同じ電車に乗り合わせた日、二人は、同時に、一目惚れしたのだ。 それからというもの、悟郎は、毎朝、窓ガラスに映った美咲を見るのが楽しみになった。 美咲は、ずっと、悟郎の背中を見ていた。 駅前の道で、美咲とすれ違ったとき、振り返って、その後ろ姿をじっと見送ったことも、悟郎は白状した。 そのときは、気が動転して、籠の中の吾郎には、気付かなかったらしい。 美咲は、自分が、普段は降りない駅のホームから、悟郎の写真を盗み撮りしていたことを彼に話した。 「つぎ会うときに、写真持ってくるよ。」 悟郎は、言った。 「ううん。」 美咲は首を横に振った。 「一緒に撮ろう。」 やっと、素直に言えるようになった美咲である。 「うん。そうしよう。」 悟郎も素直に応じた。 そして、二人は、自分たちを一番苦しめていた躊躇の原因となった勝手な思い込みさえも、お互いに話し合った。 「君には、絶対につき合っている彼氏がいると思っていた。」 「私も、あなたには、きっと彼女がいるんだろうなって。」 言ってしまえば楽になる。 たとえ、相手から、どんな答えが返ってきたとしても。 いずれは、笑いごとになるのだ。 数年後、二人は、結婚し、家庭をもうけた。 大金持ちの息子という美咲の予想は外れて、悟郎は、ごく普通の家庭の子どもだったが、努力して、美咲の白馬の王子になった。 学生時代に司法試験に合格し、今は、弁護士をしている。 美咲は、吾郎の引き合わせで弁護士夫人になったわけである。 吾郎はと言えば、相変わらず、ベッドの上で、寝転がっている。 美咲のベッド? いや違う。 美咲と悟郎のベッドの上で、ときどき、伸びをしたり、欠伸をしたりしながら、過ごしているのだ。 あれから、美咲には考えていることがあった。 もしかしたら、と思うのだ。 「もしかしたら、吾郎は、あの日、自転車であなたとすれ違ったときに、あなたの心が見えたんじゃないかしら?」 美咲は、悟郎に言った。 「うん。そうかもしれない。猫には、そういう力があるのかも。特に、こいつには。」 悟郎は、美咲にそう言い、 「そうなのか、吾郎?」 と言って、吾郎の頭をなでた。 「ミャーオ」 |
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