私は、同僚の堀井君と共に、駅のホームで電車を待っていました。 その私たちの目の前を、通過の特急電車が横切った、そのときでした。 人が、ホームに落ちて、特急電車にひかれる現場を見たのです。 しかし、堀井君も、ホームで電車を待っていたたくさんの客たちも少しも騒がない。 でも、私は見たのです。人がホームから転落して、電車にひかれるのを。 目の錯覚なんかじゃありません。 「おい。」 と、堀井君に話しかけました。 でも、それ以上、言えなかった。 私のとなりで、同じように前を見ていたはずの堀井君は、落ち着き払った顔をしているのです。 万が一にも、目の錯覚だったら、……、という気持ちが私を制止しました。 私が、幻覚を見たという話が堀井君によって、会社に伝えられたら、……。 その噂は、瞬くうちに社内中を駆け巡るに違いないのです。そして、私は、上司に呼び出される。 「残念だ。君を信頼していたんだがね。……。非常に、残念だ。」 上司は、きっとそう言います。声が聞こえるようでした。 それで、私は、堀井君に訊ねるのをやめました。 そして、もう一度、周りを見ました。 でも、やはり、誰一人、気づいた様子はないのです。 けれども、私は、見たのです。あれは、錯覚じゃない。 何とかして、駅員に知らせなければ。 あせりました。 そして、駅員に近づいたのです。 「あの、」 声をかけた私に、 「何ですか?」 と、駅員は、無愛想に答えました。 「いえ。いやあ。やっぱりいいです。」 少し照れたようなふうを装い、頭をかくふりをしてごまかしました。 またしても、言えませんでした。 人がホームに落ちたというのに、それを、私以外の誰も見ていないなどということがあるだろうか。 やはり、私の見間違いだったのかもしれない。 そう思おうとしました。 自分を殺すことには慣れているのです。 でも、できなかった。ことは、人の生き死にの問題なんです。 それに、何度思い返しても、あれが、自分の錯覚だったとは思えないのです。 「あの、」 私は、勇気を出して、再び、駅員に話しかけました。 「はい。なんですか?」 駅員の声は、さっきよりは、事務的ではなく、私の困り事を一緒に解決しようという優しささえのぞかせているようでした。 でも、やはり、言えませんでした。 私の言葉に、駅員は、信号を手動で停止して、赤に切り替え、駅の全職員を動員して、転落した人を探すに違いありません。念入りに念入りに。もちろん、警察にも通報がされることでしょう。 通過していく特急電車にまともに跳ねられたのだから、あの人は、恐らくは生きていないでしょう。 私は、駅員たちが、ビニール袋を持ち、飛び散った肉片や衣類の切れ端、遺留品等を、遺族と警察のために集める光景を想像しました。 でも、もし、私の見たことが、白昼夢だったら。 今まで私は、幻覚を見たことはありません。けれども、そのことは、今回もそうではないという証拠にはならないのです。 もし、幻覚だったとしたら、作業の時間駅の業務を麻痺させ、電車を止めて電鉄会社と利用客に与えた損害の責任は、全て私にかかってくるのです。 それだけのことがあったら、ニュースに飢えているマスコミが黙っているとも思えません。すぐにやって来て、彼らは、私にマイクを向けながら、質問するでしょう。 「あなた。本当に見たんですか?」 「幻を見たんでしょう。」 「それとも、有名になりたかったんですか?」 そして、みんなが、口を合わせて言うのです。 「それにしても、人騒がせな話だ。全く……。」 私の名前は、次の日の新聞に、写真入りで、大きく載せられてしまう。 見出しは、きっとこんなふうです。 『白昼夢を見た中年男性!』 そして、私は、上司に呼び出される。 彼の言うことは、私には、わかりきっているのです。 「残念だ。非常に、残念だ。返す返すも、まことに、残念だ。」 やはり、私には、言えませんでした。 「あのう、」 「何ですか?」 駅員は、怪訝そうな目を私に向けました。 「次の電車は?」 私は、その場を繕おうと、そう訊ねました。 「次は、一五時〇三分。間もなく到着しますよ。」 「どうもありがとう。」 と言った私の小さな声の語尾をかき消すように、 「ほら。見えてきましたよ。」 と駅員が言いましたが、その大きな声の語尾もまた、停車する列車の音にかき消されました。 私は、ホームから落ちた人に心を残しながら、堀井君に急かされて電車に乗り込むしかありませんでした。 電車の中でも、会社に帰ってからも、駅でのことが気になってしかたがありませんでした。 もし、目撃者の全てが、私と同じように、考えたとしたら、……。あるいは、私以外は、本当に起こった出来事を偶然にも見ていなかったのだとしたら、……。 何度か、堀井君に訊ねてみようと思いましたが、やめました。 そして、その日は、残業もせずに、退社しました。 会社を出ると、帰り道とは反対の電車に乗って、あの駅に向かいました。 駅は、普段の通りで、そのことは、少なくとも二つの可能性を秘めていました。 事故は起きなかったか、まだ、発見されていないか。そのどちらかです。 事故が見つかって、その処理が全て終了するには、数時間はかかるでしょう。 現場検証や、掃除、点検。 でも、そういう作業が進行しているようには見えませんでした。駅員もいつものままです。ホームに警察の姿も見当たりませんでした。 男が飛び込んだ場所を避けながら、ホームの際に立って、下を覗いてみました。 でも、そこには、捨てられたタバコの吸いがらとガムの包み、紙屑といったよく見かけるもののほかは、何もありませんでした。 首を突き出して、線路の続く方向を見ました。 特急に跳ねられたのだから、真下の線路を見るよりは、進行方向を見た方がいいと思いついたのです。 けれども、そちらの方にも、普段通りの点検作業をしている保線区員の他は、何も発見することはできませんでした。 立ち話をしている二人の駅員の側にさりげなく近寄ってもみました。もしかしたら、彼らは、事故のことについて、話をしているかもしれないと思ったのです。 耳を凝らして二人の話す内容をうかがいましたが、話はつまらない世間話でした。 幻覚を見たのだろうか。 私は考えました。でも、どうしても、そうだとは思えないのです。 この駅にいつまでいてもしかたがないと考えた私は、家へと向かいました。 途中、乗換駅の電光ボードに流れるニュースを一通り見ましたが、やはり、電車事故に関するニュースはありませんでした。 寄り道をしたのに、いつもより早く家につきました。 いつもより早く帰宅した私に、妻は、 「早いわね。」 と言ってから、その言葉を繕うように作り笑顔を浮かべました。 妻には話せませんでした。 大騒ぎになるのは目に見えているのです。 食事を済ませると、風呂に入りました。 湯舟の中で温まり体がリラックスすると、心も少し落ち着いたような気分になってきました。 考えてみれば、どこの誰ともわからない人間が、電車にひかれようが、ひかれまいが、自分には関係ないじゃないかと思えてきました。 これ以上は、この問題に関して、考えないようにしよう。 そう思うことにしました。 次の日の朝刊にも、事故の記事はありませんでした。 やはり、幻覚なのか。 そんなことを考えながら、通勤電車を待っていた私は、一人の男が、通過する電車に飛び込むのを、また、見てしまったのです。 私の周りには、同じように電車を待つ大勢の人がいました。 でも、目の前で起こった事故に、誰も声を上げないどころか、誰にも、何の反応もありませんでした。 これも、幻覚なのか。 私は、自分が信じられなくなってしまいました。 激しい脱力感に襲われ、ベンチに腰を下ろしたまま、ぼんやりと、来ては出ていく電車を眺めていましたが、やがて、思い立って、昨日の駅に向かったのです。 駅に着くと、昨日は立つことをひかえた場所、あの事故の男が立っていた場所に立って、線路を見つめました。 私は、幻覚を見ていたのだろうか。 発狂に対する漠然とした恐怖が私を包みました。 疲れのせいだ。 私は、そう思おうとしました。これまでも、いろいろなことを、そう思うことで乗り切ってきたのです。 でも、こういうことが会社で起こってしまったら、私の今まで培ってきた全てが、崩れ去ってしまうのだ。 崩れ去る、と考えたところで、私は、大変なことを思い出しました。重要な会議が予定されていたのです。あわてて腕時計をみました。が、もう間に合わない時刻でした。 どうしよう、という言葉が、加速度的に増幅されながら、頭の中を旋回しました。 だんだんと気が遠くなるのを感じました。 気が遠のくと、それは、考えすぎているときよりは、かなり楽な気持ちでした。 薄れていく微かな意識の中で、遠くから近づいてくる電車の音を聞きながら、私は、ほほ笑みを浮かべている自分を感じていました。 |
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